慈眼寺 副住職ブログ

イオンにばかり行ってると、バカになる、のか。

娘がある日、幼稚園で

「イオンにばかり行っていると、バカになっちゃうよ。」

と言いました。

ハッ、としました。

なぜならそれは、他ならぬ私が言った言葉だからです。

子どもは怖い。私の歪みをそのままスタートから受け取る。歪んだ土台からさらに歪んだ建物を造っていくのかと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

が。

所詮人間はあらゆる偏見から逃れることなどできない。偏見でないものの見方など、存在しない、と思っているので、私の「よい偏見」を与えようと思っても、彼女はどうせ新たな彼女自身の歪んだ見方をするようになるのでしょう。

そこで今日は、私個人の歪みを自分で分析しようかなと思います。

あんなことを言いましたが。

イオンはいい。最高です。

なにより時間が潰れる。駐車場がタダだったりする。矛盾しますが、子供を遊ばせるのにあんなにいいところはない。エアコン効いてるし、適当な食べ物もフードコートにある。おもちゃ屋もある。子供が利用しやすいトイレもある。カート乗せてるだけでもいい。

なによりユニクロがある。無印がある。スポーツデポがある。

もうオジサンなんかコレで十分。ユニクロでええやん。ユニクロがええやん。

お腹が減ったら丸亀製麺にしますか。マックですか。リンガーハットですか。

実にちょうどいい。

だが、その「ちょうどよさ」が恐ろしい。

奈良には伊勢丹なんてないし、阪急メンズもない。代官山もない。秋葉原もない。オシャレなカフェもないし、居心地のいいセレクトショップもない。

「でも」イオンがある。「だから」イオンがある。

最先端のオシャレなものがないのは、その価値が分かる人間がほとんどいないから。商売にならないから。買ってもそんなカッコして町を歩けないから。地方は地縁でがんじがらめ。変なカッコしたら途端に浮く。地方で「悪目立ち」くらいダメなものはない。絶対悪、であります。

だから、郊外に「ちょうどいい」ものを並べて、まとめてそんなものが全て手に入るハコを作る。そこにいけば「とりあえず」、「最低限の文化的生活」が送れている、と思えるような。

「ウチの町にはスタバもない」

なんて嘆いたりしますが、とりあえず、これさえあれば田舎じゃない、みたいな「平均的」な何か。この多様化を是とするリベラルな社会で、一方で現代人はいまだにびっくりするほど「平均」を望んでいる。

そこらあたりを実に「ちょうどよく」、文化的にエッジを取り除き、平均化し、「どこにでもあるようなもの」を与えてくれるのが、イオンに代表されるショッピングモールです。実にちょうどいい。

あたかも、「おまえらはこんなもんで喜んどけ」とでも言うように。

私にはこれが家畜にエサを与えるような行為に思えて仕方ない。

本当に価値のあるものは東京に集まる。地方から出られないような奴らはコレでも着とけ。食っとけ。おまえらの欲しいもんはこの程度だろう。

そう言われている気がする。

そして悲しいことに、だいたい「この程度」なのです。少なくとも私は。

昔は頑張って、都会に負けるなというような気持ちもありました。ですが今更、私服なんて着る機会、1週間に1回もない。出歩く距離も知れている。車に乗って・・・

イオンに行くだけ。

じゃあ、イオンの服でいいじゃん。

それは肩の力が抜けた、実に居心地のいい境地であると同時に、このままでいいのか。こんなもんでいいのか。生活のすべてがこんな人工的で、計画的で、歴史なんて欠片もない、今だけよければいい享楽的で何も考えなくていい場所で済んでしまっていいのか、という気持ちが拭えません。

その、居心地がいいけれど、同時に過去の積層も、未来への蓄積も感じられない、つまりは何の文化を生まないまま、人生を浪費していくような感じが、たまらなく怖い。さきほど「家畜」と言いましたが、ただ与えられるエサを食べ、与えられたものを着て、そうして子供を育て、その先は・・・?

車もやがて運転できなくなり、イオンにすら行けなくなる。子供は東京に行って帰ってこない。

クワガタのごっそり採れた山を丸裸にしてニュータウンを作ってはゴーストタウンにしていく。「〇〇台」とか「〇〇丘」と名前をつけられて「古くなったニュータウン」が捨てられていく。焼畑農業と同じ。

結局地方には何も残らない。

東京に行った友人は、「優秀な人はみんな東京に集まっている」と言いました。

一面では当たっているのでしょう。
もうよほどの天災でもない限り、東京の一極集中は変わらない。(そしてそんなことが起こったら、日本が単純に壊滅する。)

東京では高い生活コストと、混雑のストレスはありますが、それに耐える「その他大勢」と、そこから抜け出す「特権階級」という二極化を拡大しつつ、東京と地方というもう一つの二極化もどんどん拡大していく。

そこを最初から目指さない生き方。これを、「マイルドヤンキー化」と呼ぶ見方も少し前にありました。まさしく「イオンでいい生き方」と言えるかもしれません。

だが、そうではない地方に生きる意味を、私は見いだしたい。

東京に与えられた「薄味な東京」は要らない。でも、東京そのものも、要らない。

東京で暮らす生活コストを省いて、イオンで買い物を済ませたぶんだけ、余った時間とお金で、もっともっと価値ある何かを。

ここに住んでよかったと思いながら死ねる何かを。

そういうものを探したくて。探してほしくて。

別に昔ながらの商店街のお店がいい、なんて牧歌的に思ってるだけでは全然ないのです。イオンの方が100倍ニーズに応える。価値がある。「ちょうどいい」とはニーズに応えている、ということ。イオン最高です。その言葉に嘘はない。

そんな便利で快適で楽しくて「ちょうどいい」イオンを十分満喫しながら、「”ちょうどよく”なんかない。ココにいてはダメだ。ココで満足したらダメだ。」と必死で背伸びをして。

この「ちょうどいい」を与えてくる「誰か」を睨み付けながら。

イオンでもコストコでもイケアでもスタバでも三井アウトレットパークでもない。

「俺の街」のスゴサがほしい。

その気持ちが、冒頭の言葉となり、私の中に呪文のように響くのであります。