慈眼寺 副住職ブログ

世間をお騒がせ

来る日も来る日も。

凄惨な事件か、下らない個人攻撃ばかりですね。

叩きやすい、「キャラの立った」人を見つけて、みんなでなぶり者にして、「消費」する。芸人と同じです。ギャラを払わなくていいから、お得なんでしょうね。

確かに出てくる人は、大いに問題がある方々なのですが、つまるところ、こんなこといっちゃなんですが、利害関係なんて特にない人じゃないですかね。当事者が大いに怒るぶんにはいいのですが、なんなんですかね?「義憤」?ですか?もっと除染作業にまつわる黒い話とかのほうに大いに憤った方がいいように思いますね。

謝る方も謝る方で。みんな揃って同じことを言う。

「世間をお騒がせして、申し訳ございません。」

ナニコレ?っていつも思うんです。

騒音で迷惑かけているならともかく、そうじゃないわけで。何?「世間」って???あやふやな。

ラグビー部の誰々に御迷惑おかけしましたとか、ボクシング協会の誰それに誠に申し訳ありませんとか、そういう話じゃないんですよね。

「世間一般」に謝る。

謎ですねー。

アレなんですかね?利害関係のあった個人に謝るのは癪に障るから、ボカしてるんですかね?宇宙全体に謝るならなんか謝りやすいですもんね。

そもそも「世間」ってなんなんですかね?一般社会なんでしょうね。でも、そんなものに謝る必要ありますかね?ほとんどの人、利害関係ないですし、そもそも、社会に謝ることなんて、できるんですかね?

「世間」というのは、仏教用語です。

我々は一応、「出家」しておることになっております。胸を張って言わなきゃいけないのでしょうけれど。一応(笑)になっちゃいます。
「出家」とはすなわち「出世間」。「世間」はサンスクリットではlokaであり、「砕く」とか「滅ぼす」とか、そういう意味です。つまり、克服するべきもの、出ていくべき対象として、最初から否定的な意味合いが、仏教ではなされている。

愛欲にまみれ、利害にがんじがらめになり、こだわるべきではないものにこだわって真実が見えなくなっている火宅の世界。

そんなところを騒がせて、謝る必要があるのでしょうか。

どうでもいいですよね。ただ、消えていけばいいのです。世間から出ていけばいい。そうすれば真実が見える。おごり高ぶって他人を食い物にした自分自身の姿が見えるはずです。

とりあえずこの場をごまかして、世間に居座って、まだまだ欲望を果たそうと思うから、謝ることになる。むしろ、世間の壊されるべき対象そのものになってしまっている。

とにかく大事なことは、自分がひとかどの人物である、などという大いなる思い込みを、捨て去ることだと思うのですがね。

また、「善意の一般大衆」としてのその他大勢の人々のあり方も、考え直した方がいいように思います。別に仏教に帰依せよ、というわけではない。義憤結構。社会正義を為すこと結構。

ただし、ここで何度も書いているように、「他人が非道徳的であると指摘することそれ自体は、全く道徳的ではなく、ときに反道徳的ですらある」ということです。罪人に石を投げつける権利が自分にあるのか、そこのところを見失えば、社会正義の名を借りた、ただのリンチですよね。

「世間」だとか、「社会」、はたまた、「一般常識」とやら言う、なんだか理由は知らないけれど、日本社会ではものすごくでかいツラができる謎のパワー。

これをよく検討することなしに妄信してしまった結果が、畢竟毎日謝っているような傲慢な誰かを作り上げているのではないかと、私は思います。

別に出家せよという気はないですが、「世間」には気を付けた方がいいですよ。

アレは人を喰らいます。

私も気を付けなければなりません。

「世間」にお住いの「常識」をたっぷり備えた正義感あふれるご立派なみなさん。ゆめゆめお忘れになられぬよう。