慈眼寺 副住職ブログ

不惑

恥ずかしながら、本日誕生日を迎えました。

四十です。

「四十にして惑わず」の四十です。
つい最近、「不惑ではなく不或」説がまことしやかに流布しています。つまり「惑わず」ではなく、「囚われずに色々なことにチャレンジせよ」という意味だ!という説です。鬼の首をとったような勢いです。が、根拠が薄弱です。ほとんど「親は木の上で子供を見ている」的な説得力だけは妙にある俗説ではないかと踏んでいます。

どうやら元をたどると『身体感覚で論語を読みなおす』(安田登)が流布した大元のようです。2009年発行のこの著作をもとに、どんどんネット上でこの説が増幅し、最近でも東洋経済か何かに載っていたようです。みんなこういう「実は・・・だった!」っていうの好きですね。人間て一回ひっくり返されるとそれが真実だと思い込むところがあるから滑稽です。一回ひっくり返るということは、二回目も三回目も当然あり得るとは、なぜか考えないんですね。

子曰く 「吾、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順い、七十にして 心の欲する所に従いて矩( のり) を踰えず」

30「而立」⇒40⇒「不惑」⇒50「知命」⇒60「耳順」⇒70「従心」という具合にどんどん人間的に完成されていくという、まぁ「神話」の類ですので、「年長者はすごいんだよ」くらいに流しておけばいいと思います。そもそも2500年前の年齢認識と今の認識では大きく違いましょう。この時代40まで生きる人って既に相当お年寄りですし、今よりずっと経験の蓄積が意味を持つ時代だったかと思います。まぁ、現代人により受け入れ易い解釈という点では「不或」説は魅力的で、孔子を現代に生かすという意義はあるのかもしれませんけど、よくまぁ文献的裏付けも皆無に近い説がこうも流布するものです。

そもそも論語の時代紀元前5世紀ころに「惑」という字はなかった、というのがこの説のキモのようです。その一方で、7世紀の則天武后の時代には「國」という字が「国の中が惑う」という意味で不吉だということで、則天武后の作った文字、すなわち則天文字「圀」が生まれています。則天文字で生き残ったのはこれだけで、みなさんご存知あの水戸光に使われているわけですね。この「圀」は「八方がしっかりと守られている」という当て字もいいところの幼稚な成り立ちの文字ですが、このことから分かることは、「國」の「或」の部分を「惑う」と結びつける発想は7世紀の中国でも常識だったということです。もちろん論語成立の1200年も先ではないかという反論はありますが、それを言うなら、2500年も先の異国人能楽師が何の文献的裏付けもなしに急に唱え始めたことよりは傍証にはなる気がするんですよね。なんでも都合のいい説に飛びつくのではなく、みんなもうちょっと惑ったほうがいいのではないでしょうか。

実学実学と言いますが、学問の効果というのはなかなかそんなに都合のいいものではないはずです。特に文系の研究というのは、ある時代の思考を現代に生かすために、ある時代と今の時代がどのくらい違う時代か、ということを認識することだけで終わってしまうようなところがあります。惑わないということは、考えていないことと同じです。

そんなわけで四十にして惑いまくり、五十でも天命を知ることなく、六十にして動揺しまくって、七十にして道徳的に大いに問題があると思いますし、そもそもその途中でいつ死ぬかも全く分からない私ですが、たぶん「死にたくない。死にたくない。死ぬのが怖い。」と喚きながら見苦しい人生をこれからも続けることと思います。儒教的にも仏教的にも完全アウトのダメダメ僧侶をこれからもよろしくお願いします。