慈眼寺 副住職ブログ

おばあちゃん

私事ですが、本日、私の母方の祖母の四十九日でした。
周りの方々に気を遣わせては、と、今日まで明らかにしておりませんでした。失礼しました。

連休前に入院中の祖母のお見舞いに娘と奥さんと三人で行ったところ、20分前におばあちゃんが息をひきとっていました。
娘は前日くらいに「ばあば」という言葉を覚えて、「ばあばに会えるよ」と話しかけると嬉しそうにぴょんぴょん跳ねながら病院の廊下を歩いていましたが、行った先には沈痛なおじとおばの姿がありました。

91歳。

長寿といえば長寿ですが、やはり悲しいものです。
母に先立たれ、後を追うように祖父が亡くなり、おばあちゃんの晩年は悲しみの連続でした。母には見せられなかった孫ですが、おばあちゃんにはひ孫を三人見せられたのが、唯一よかったかなと思います。

本当に、仏様のような、誰の悪口も言わない、いや、おじいちゃんへの愚痴以外は決して誰の文句も言わない、やさしい、やさしい人でした。
僕に怒ったのも一回だけ。

「もう!」

と言った僕に、「男のくせに、そんな口の利き方したらあかんで」と言っただけです。

僕が生まれたときは50になりたての若いおばあちゃんでしたので、いろんなところに連れて行ってくれました。寒いときはおばあちゃんのスカートの中に潜って歩いていました。夏休みはほぼひと月おばあちゃんの家に預かってもらい、毎日積み木をしていました。初午や二の午の日はおばあちゃんが僕の面倒を見に来てくれ、おばあちゃんの持ってきてくれる、「魚ご飯」というマグロの炊き込みご飯が楽しみでした。天ぷらも美味しかった。いったん味付けして炒めてから揚げた、手の込んだものでした。私の幼年時代は、ほぼ、おじいちゃんとおばあちゃんに育てられたようなものです。

おばあちゃんのウチでは、毎朝おじいちゃんが起きて、新聞を読み、それからノミを持って何かを掘りはじめ、僕はその廃材で積み木。昼頃おばあちゃんがそばかうどんを作る。おじいちゃんは365日、お昼はそばかうどん。おばあちゃんとスーパーまで二人で歩いて帰ってきて、晩御飯の後は仕事帰りのおじとお風呂。おじいちゃんは風呂から出ると、出っ張ったお腹を「ポン!」と叩いて見せびらかします。
おじいちゃんの見るテレビは時代劇か巨人戦か刑事モノ。日曜洋画劇場なんかもよく見てました。「ポセイドンアドベンチャー」はドキドキしながら見てました。おじいちゃんは見ながら寝るので、その間にチャンネルをアニメに変えるのですが、変えると起きて怒りました。

そんな日常のなかで、いつもひっそりと細々とした仕事をしながらニコニコ笑っている、まさに昭和のお母さんの鏡のような人でした。短気で趣味人のおじいちゃんのせいで、さぞ振り回されたことだと思います。それでもおばあちゃんが胃がんで手術したときは、おじいちゃんオロオロして買い物をするようになったり、でも、余計なものをたくさん買ってきたりでおばあちゃんは「全然役に立ってない」と困り顔でした。

60歳で突然水泳を始めたときはビックリしました。その理由は、「スイミングで泳ぐ僕がイルカみたいに楽しそうだから」という理由でした。背中が曲がってきたから、背泳すると気持ちいい、とも言ってました。70歳になるとピタリとやめました。その理由は、「70にもなって水着は恥ずかしい」という、当時も今も僕にはよくわからない理由でしたが。

私が中学受験に全部落ちたときは、最後の一校の合格発表はおばあちゃんが見に行きました。私が学校のプール横の森で遊んでいるとおばあちゃんがやってきて、言 いにくそうに「あの・・・あかんかったわ」と言ってきたのに「うん!俺もそう思ってた!」と答え、おばあちゃんの心、孫知らずでした。当の本人が森で遊んでるって、どうなんだ(笑)大学受験はおばあちゃんの作ってくれた半纏で寒さをしのいで乗り切りました。

無駄口を叩かず、いつも黙々と働いて、ニコニコ、ニコニコ。いっぱい僕を褒めてくれました。あんないい人はもうこの世の中にいないのではないかと思います。あんなに迷惑かけたのに、愛情を注いでもらったのに、何一つ返せないまま、おばあちゃんに会えなくなってしまいました。おばあちゃんにはありがとうの言葉しかありません。91年分まわりの人を幸せにして、幸せにするだけして、自分はひっそり亡くなっていきました。

私はあなたの孫に生まれて幸せものです。おばあちゃんのようにはなれそうもないですが、自分がだめになりそうなときは、おばあちゃんの孫であることを思い出して、寒い日に布団の中でひっついたおばあちゃんのぬくもりを思い出して、生きていきたいと思います。

おばあちゃんは豊子といいます。ほんとうに豊かな、どこまでもあたたかな、優しい優しい、優しい人でした。
優しいことが一番強いのだと気づかせてくれた人でした。