慈眼寺 副住職ブログ

いますがごとく

昨今色々と世の中世知辛くなりまして、何かというと叩いたり叩かれたり、訴えられたり。

昔はよかった、なんていうのもまた違うわけで、昔はもっと揉めるべきものが、泣き寝入りだったわけで、どちらがいいというものではないのですが。

良くも悪くも、こういう世の中になって、我々はいつも「まわりにアピールすること」が大事になってきます。

いやこれもまた、昔も今も変わらないのかもしれません。大本営発表や参勤交代や荘園や租庸調のころから、日本人は「まわりにどう思われるか」ばかり気にして生きてきたのかもしれません。

そういうわけで、現代的な形式主義とでもいうべきものか、とかく企業も自治体も個人も「ウチはこれだけ対策をとっています」というアピールがとにかく大事になってきます。

洗濯機には「犬を洗わないでください」と書いておきます。洗った人に訴えられたら困るから。

道路には「危ない!危険!」と書いておきます。事故があってもこっちは注意したから「自己責任だよ」ということです。

「わが社は顧客にアンケートをとっています」というアピール。アンケートをとりさえすればよい。とることが自己目的化しています。

「口コミ5つ☆が300人!」90%サクラです。

有給休暇を取らせろと命令されれば、有休をとらせてその日に出社して残業手当を払ったり、休日に有休を消化させたり。

株価をどんどん吊り上げて、実態より会社を大きく見せて、さらにお金を借りて株価を吊り上げる。

炎上でアクセス数を稼いでお金を稼ぐ。

 

形式主義、といえば、その最たるもののような職業をしているのが、我々僧侶です。

お経をあげて何になるのか。なすびやきゅうりをかざって何の意味があるのか。目の前の仏像は偶像ではないのか。私のお墓の前で泣かないでください。眠ってなんかいません。言われて見ればその通りであります。

 

私はあんまり論語は好きではないのですが、大好きな言葉が一つあります。もしかしたらここでも取り上げたことがあるのかも。

 

「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在(いま)すが如くす。」

 

先祖を祭る時はあたかもその先祖が目の前におられるように行い、神を祭る時は、目の前にその神がおられるように行う。

この「いますがごとく」という言葉、腑に落ちるといいますか。ストンときます。

孔子は「怪力乱神を語らず」、すなわち、人智を超えたものについて、判断を下すことを避けます。わからないことを、わからないままにしておく。

中身というものは、案外最初からあるものではなくて、こちらが「あるもの」とみなすことで、すなわち「いますがごとく」扱うことで、はじめて存在し始めるものなのかもしれません。

「仏がいる」と思えばそこに仏はいる。

そういうものなのかもしれません。

でも、「仏がいると思っていますよとまわりにアピールすること」は「いますがごとく」しているとは言えません。

「中身」との向き合いかたに他人やまわりは関係ない。

目の前の何かに真摯に向き合うことのみが、「存在」を生み出す気がします。

お客さんがいなくてもいるつもりで働く。誰も気づかないような細工でも、手を抜かず仕事をする。誰もいなくても、いるときと同じように行動する。

それはつまり、仕事で言えば、「中身のある仕事」だということであり、人としては「中身のある人間」だということになるような気がします。

なんかまとまっていないような気もしますが、自分の中では繋がっているんです。仏さまも世の中の仕事も人も。