慈眼寺 副住職ブログ

修羅のごとく

お坊さんなんかやってますが、人格修養とか全然できてない副住職です。

性格も案外、というか、気難しいと思います。そんなややこしい私の「導火線」と言っていい案件があります。

「幼児教育」関連です。

なんでなんでしょうか。娘に「く〇んに行けば?」「お受験したら?」「塾行けば?」とか勧める人がけっこういるらしいのです。5歳ッスよ。ほんまナゾ。

お金くれてもイヤです。

そのお金で自転車の部品買いますわ。ボーラ買えるやろ。ボーラ。

 

幼児教育なんてのはまやかしです。だいたい「やっててよかった」と皆さん言います。
でもよく考えて!人生は一度きりなんです。ドラクエじゃないんです。

セーブしたところからやり直した人いますか?

「やってなかった」方の人生と比較なんてできないんです。

お兄ちゃんやお姉ちゃんと比べても無意味です。その子のその時期は一度きりなんですから。だから苦悶式だかなんだか知りませんが、「やっててよかった」なんていうのは、「やってなかったらもっと悪くなってるところだった!」なんてぐあいに、なんとでも言い訳できるんです。

宗教です。

お坊さんが言うんだから間違いない。

幼児教育は宗教です。

そうだと分かってる人だけが信じる分にはいいものです。信じる者は救われます。ただ、私は「その宗教」は信じませんね。

 

英語とかの発音とかならわかります。音感とかなら分かります。逆立ちとか水泳とか。わかります。感覚系とスキル系ですね。でも勉強は不要だと思います。

幼児教育の根本の考え方は「先取り」です。知識をどんどん先取りして覚えていけば、有利だろうという単純な発想。

「ウチの子は2年なのに5年生の内容をやっている」

という優越感?なんでしょうか。

先取り学習には、ほぼ弊害しかない

というのが私の実感です。

速く進めば、たくさん覚える。⇒賢くなる・・・

わけがない。

私が見てきた先取りの累々たる失敗例は、何がやりたいのかも何も分からないままに、親に言われるまま塾に通い、お受験を突破するためだけの「最短距離」を詰め込まれて、すっかり燃え尽きてしまった子供たちです。最近は受験も科目数を極限まで減らせますから、本当に一点突破でなんとかなります。そこで行った先で待つものは何か。

ここでも先取りです。中学なのに高校の内容、高1なのに高2の内容・・・どんどんどんどん先取ります。するとどうなってしまうのか。

賢い子は対応します。間違ってはいけないのは、賢い子、情報処理能力が高い子というのは、先取りしたから賢いのではなく、賢いから先取りできるのです。問題は普通の能力しかないのに先取りを強制された子どもたちです。ひたすら分からない内容を与えられて、消化する間もないまま先に進みます。授業の内容は右から左へ抜けるだけ。

「それでもやらないよりはマシだろう?」と、よく言われます。

場合によっては、「やらない方がマシ」です。

その子に合ったスピードで、一番吸収しやすいときに身につけるべきものを身につけるのがベストです。早すぎるくらいなら後から猛烈に追い上げた方がマシです。野球部を引退した子が、坊主頭の髪が伸びるごとに、どんどん偏差値を挙げていくときの勢いと目の輝き、アレを見たら「先取り」に追われる子の姿のなんと哀れなことか。

一番の問題は、どんどん先取りをした結果、もはや、何を習っても新鮮味が感じられないことです。

どんどんどんどん教わって、どんどんどんどんすり抜けていく。

何も残らない。

”あとから”学校で習うのは、塾で習った”はず”の内容ばかり。真剣に聞けません。学ぶ感動も驚きもありません。そのくせ何も身についていません。自分は二度目、三度目に習った内容なのに、はじめて習った「普通の子」に負けてしまいます。まったく覚えてないことについて「もう教えた」と言われてしまう。先取りの先にある一つの未来は、何を習ってもどこまでいっても「敗北」の味がする学習の地獄です。

昔、物凄い先取りをさせる先生がいました。中1に微分積分を教えるような人でした。その人が私に一度人懐っこく笑ってこんなことを言ったことがあります。「自分の子供にはぜったいこんなことさせないけどね!」と。そういう人間味のある人でもありました。この人の場合は、子供を飽きさせないために敢えてどんどん情報を与えていたんだろうなと思います。

こういう確信犯は別として、教える側としては楽なんです。「ウチは〇年で◎年の内容を既にやっています」っていうだけで、何かエリートっぽく見える。やるだけなら誰でもできますよね。習熟度が問題なのに、それは個人差があるし、何より見えにくい。

ちょっとでもまともに受験勉強したことがある人ならすぐにわかることですが、自分の頭で考えない学習なんて何万時間やっても無駄です。どれだけ座って話を聞いても、どんな偉いセンセイに習っても同じです。東大生の家庭教師がつきっきりでも同じです。

自分の頭で考えて、自分で悩んで、自分で理解して、「ああ!わかった!」という感覚を積み重ねた時間だけが意味があります。

それ以外の時間は、その自分の時間を作るための下準備に過ぎない。材料ばかり集めても、料理しなければお腹には入りません。一人で考える時間が長いほど、その学習には意味があります。逆に言えば、自分で考えてさえいれば、習っていないことだって見えてきます。当たり前のことです。

いわんや、まだ小学校にも通っていない子供のドリルやらさまざまな暗記なんて、猿回しの芸以外のなにものでもないです。

本当にその子供が計算が好きで、一冊のドリルを与えると夢中で没頭し、「もっと、もっと」とせがむなら、どんどんされたらいいと思います。素晴らしいと思います。天が与えた才能だと思います。存分にお伸ばしになったらよろしいかと思います。

ですが、残念ながら、99%の人はそうではない。で、凡人がお勉強するためには「動機」が要ります。「面白さ」が必要です。昆虫がすごく好きだから理科が好きになり、生物学を勉強する。本が大好きだからどんどん読んで知識を増やし、やがて知の「構造」について考えるようになる。工作が大好きでどんどん作るうちに、強度計算や設計に興味を持つようになる。

はじめに「好き!」という根本的欲求がないことは、まったく伸びないです。

逆に言えば、本当に好きならば、才能なんてまるでなくても、必ず成功します。私の知っている「好き」を仕事にした人たちはみな、「才能があった人」ではなく、「やめなかった人」たちです。ずっとやり続けた人だけがモノになっています。

子供には無限の可能性がある。

これは一面では真理です。が、無限の可能性がある、ということは「まだ何者にもなっていない」ということと同じです。生きていくことは可能性を伸ばす過程ではなく、何かを捨てていく過程です。捨てて捨てて、最後に残ったものだけが、「大事なもの」です。つまりは「自分自身」です。

私は娘がやりたいことは何でもチャレンジさせてあげたいと思います。

同時に、娘がやりたいとも思ってもいないことを先回りして「こういうことをやってほしい」などと先取りして用意することは、絶対にしません。

い・わ・ん・や!

他人の子供にあれせいこれせいなどと、頼まれてもいないのにオススメする、という行為の滑稽さに気づいていない人と接すると、修業が足りなくて気難しい私は、心の中で八面六臂で口から火を吹きながら暴れまわっております。

斯様に人格破綻したアブない人間ですので、くれぐれも私の子供のことはほっていてください。だいたい、ならいごとばっかり行ったら一緒に遊ばれへんやん!

 

ちなみに、私がただ一つわがままで無駄だとわかっていても小さいときからやらせているのは、バドミントンです。これはただの私のワガママです。

私の悲願は、

「娘といい感じのドライブ合戦で、緊張感のあるバック側の差し合いをしたい!」

という夢。これを自分がなるべく若いうちに達成したい。それだけのためにやっています。そんなに強くなってほしいとも思いません。僕を楽しませてくれたら十分です。で、娘がどうしてもイヤだといいだしたら・・・

諦めてロードバイクに乗せます。それもイヤだと言ったら・・・

 

旅に出ます。