慈眼寺 副住職ブログ

「月かげのいたらぬさとはなけれども」の”immer schon”

前々から登山に興味がありました。

 

と、いっても高所恐怖症の私。怖いところは全然行きたくない。重たいものも持ちたくない。サバイバル能力は極めて低い。

登山したいなと思ったのは、自転車で各地の山や峠を登って、十分満足なんですが、一度路面も対向車も気にせず、ゆっくり山を登りたかったから。あと、険しい山奥のお寺の仏像とか、見たかったから。

そんなわけで、3月に入っての初めての丸一日オフの日、今回学校のほうの元同僚、父親より年上の元気なH先生と二人、愛宕山に登ってきました。

これに先立ち、「やはり登山靴は要るか?」という問題でしばらく悩みました。

本格的に登るなら、要る。そうでないなら。要らない。しかも、かさばる。そこそこ高い。トレイルランニングシューズくらいにしておくか?などと色々悩み。モンベルで試着し、好日山荘で試着し、mt.石井スポーツで試着し、悩んでいるうちに、決まらずに当日に。

その他の備品も困った。マウンテンバイク用に購入したマウンテンパーカーはそのまま使用できる。リュックがない。ドイターの自転車用は歩行時には邪魔なだけ。仕方なく若いころ買った普段使いの小さいものを使用。登山に使えそうなズボンもない。ジーパンというわけでもいかず、自転車用の半パンはあるが、今日はまだ寒い。あ!アレや!と、自転車用レッグウォーマーを装備して完成。スニーカーは適当なものがなく、とりあえずジョギングシューズで。

こうして当日先生の車に乗っていざ、愛宕山。自転車で何度も来た場所ですが、車で下道できたらけっこうかかっちゃって、「アレ?これなら自転車できてもそんなに変わらないな」と思ったり。しかも、自転車は家を出た瞬間から楽しめるけど、登山は現地につくまでの移動が純然たる移動で無駄。自転車はやっぱりいいなと惚れ直す。

そんなこんなで愛宕山登山スタート。

想像していたよりは険しい山をゆっくり進みますと、ところどころ木が倒れています。

今年の台風や豪雨の影響でしょう。相当すごかったことがうかがえます。

登ってすぐ、空から白いものが・・・。

雪でした。

こうなるとジョギングシューズの私は俄然不利!バッチリ登山仕様の先生との差がクッキリ!ロードと走らされるクロスバイクの気分!

「小股で歩くのがポイント」

とのことでチョコチョコ歩きます。こんな平日の雪降る山でも高齢者中心にたくさんの登山客。

いよいよ、到着。

こんな山のうえに・・・と驚くほど立派な拝殿がありました。めちゃくちゃ雪が残っていてビックリしました。

ヒルクライムよりは全然楽でしたが、余裕を持って進めて楽しかったです。

帰りはコースを変えて下山します。

天気が良ければなぁ~。

下りでは登り以上にジョギングシューズが滑り、怖い思いを何度かしました。やっぱり軽登山用でもいいから、登山靴必要かも。

 

往路より険しい道を降りていくと、今日の二つ目の目的地。

月輪寺です。

法然上人、九条兼実公、親鸞聖人ゆかりのお寺で、法然上人二十五霊場にも数えられます。

拝観は予約制とのことで今回は断念しましたが、なかなかの深山幽谷にある静かなお寺でした。

月かげのいたらぬさとはなけれどもながむる人の心にぞすむ

という法然上人の和歌があります。

阿弥陀様のお慈悲は月の光のごとく、どこまでも遍く照らすが、そのことに照らされている当の本人が気づかなければ、そのすくいは意味を持たない、ということを言い表す和歌です。

「念仏による往生」というものは、「念仏によって救われる」というよりは、「念仏によって”救われていたこと”に気づく」という形で顕現するといったほうがよいのかもしれません。

ハイデガー用語にimmer schon=「つねにすでに」という、日本語にすると意味不明なものがありますが、これは人間の存在了解のあり方を示す重要なことばです。

自分の存在とはなにか?という問いを発するとき、ひとは存在というものに対して、何らかの(暗黙の)了解をもっていなければ、問いを発することすらできない。気づいたときには既にある。既に知っていた答えにたどりつく。逆に言えば、この認識にたどりつくことまでがあらかじめ構造的に決定されていた、必然的なことになります。「つねにすでに」は、煎じ詰めれば「かならず」と訳した方が自然な言葉に、ハイデガーが意味を過剰に盛り込んでしまったことで生まれた訳語ではあります。しかし、ハイデガーが見いだした、この存在了解に含まれる時間的な構造が、そのまま普遍的な人間のあり方に到達していることを、この「immer schon」はいつでも教えてくれます。

われわれは死に瀕したり、つらい経験があってはじめて「生きることの意味」を考えます。しかし、生きること自体は、これまで何の問題もなく「ふつうに」行われていた。その「ふつう」があやぶまれ、失われることが予感されたときにはじめて、「ふつう」であったことを問いかける態度があらわれる。知る必要もないほど明快で自然なことが、問いかけることでそこに立ち現れる。

当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生

「まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得る」というのは、まさしくこのような形で、「つねにすでに救われていた」ことが、月影に照らされるがごとく、あるいは、稲光に照らされるように、我々自身に、我々自身を、照らし出して顕現するものだといえるのかもしれません。

そんなことを考えながら、帰りの道を下山した初登山でありました。