慈眼寺 副住職ブログ

アンチ”共感”

最近なんとな~く気持ち悪いなと思っている事柄を書きます。

SNSが普及して、世界中の人々が意見を主張し、賛同、反対をし、「いいね!」をする時代です。
日本で言えばヤフーニュースに対するコメントが支配的な気がします。もはやヤフーのコンテンツで一番活発なのはこのいわゆる「ヤフコメ」ではないのか、という気さえしています。世にいう「炎上」という事態のほとんどが、ヤフコメでの反応を指している場合が多い。ここにまとめサイトが絡んできて、それぞれの「声」が増幅しながらアクセスを増やし、それをリアルなマスコミがさらに取り上げるという本末転倒が最後に起こって、「炎上」と言われる事態を引き起こします。

ヤフーニュースに載ることが、いまや国民的ニュースという意味であり、そこでのコメントは「国民の声」ということにされてしまう。しかし実際には、それはたかだか一つのニュースに対する数人の書き込みでしかないことが往々にしてあります。

姿の見えないネットの書き込みと言うのは恐ろしいもの。姿を見せれば「母親として一言」言っていたのが、40代無職のオジサンだったり、「弁護士やってます」と法律論を語っていたのが、中学2年生だったりします。そんな不確かなものが増幅されて、誰かを毎日謝罪に追い込んでいます。

ここで決定的な役割を果たしている感情が「共感」です。

「共感」は通常よいものとされる。「シンパシー」はときに「思いやり」と同義とされる。最近流行りの「サイコパス」とは、共感能力の欠如した怪物、という意味合いで使われます。確かに、「相手の立場になること」、「誰かの気持ちになってみること」は道徳の根源であるような気がする。

しかし。

「相手の立場」に立つこと、なんて、本当にできるのでしょうか。

我々はどこまでも、絶望的に違っている存在であり、たとえば「親」としっても、子供を育てたという共通項だけで、同じ感情を持っているとは限らない。むしろ事態は逆であり、ある人は愛するわが子を手にかけ、ある人は愛する子どものために命を捧げ、ある人は簡単に子供を捨てる。

「共感」とは、むしろ想像力の欠如によって生まれる感情であり、他人のなかに現れるキーワードを勝手に自分の中で解釈しているに過ぎない。感情は非・理性的で、なんらの客観性も担保しない。そんなものによって生まれた「雰囲気」が「道徳」の顔をして誰かを「謝罪」させる渦になる。津波になる。これほど恐ろしいものはない。

地震や火災などのいたましい事件の最中に、いとも簡単に「デマ」が流れる。ときにはそれは「美談」の顔をする。勇敢な消防士、子供を救った親、乗員を見捨てた船長、横領をした社長、不倫をした芸能人・・・etc。

極論を言えばそんな、「赤の他人の無関係な話」に、勝手に「共感」をして、他の一切を忘れる。見ようとしない。

毎日何百、何千、何万という人が死んでいるのに、目の前の小さな「美談」や「噴飯もの」に涙し、怒る。

川に紛れ込んだアザラシの救助に一喜一憂しているあいだに、原発から汚染物質が日々垂れ流されていることには目を向けない。芸能人の不倫を追うのに躍起になっているあいだに、過労死する労働者のことは考えない。金メダルをとった日本人を誇りに思い、死んでいく日本人のホームレスのことは頭に浮かばない。

道徳を、「共感」で説明してしまうことのあやうさがここにあります。

私は「いいね!」と言われて、うれしい反面、「何が分かるのか」と思う。

「お前は俺か!」と共感を示され抱き合いながら、「私はあなたではない」と思う。

「一人の母として」とか発言する人がいますが、「母」ってだけで「母代表」されても困るわ、と思います。

辛い経験を吐露すると、途端に寄ってくる「私もそうでした」の嵐。「一人じゃない」と思うと同時に、「一緒にするな」という気持ちが頭をもたげる。あなたの辛さと私の辛さは違う。私は傷をなめ合いたいのではない。ただただ、「痛い!」と叫んでいるだけである。あなたも自分の「痛み」を叫べばいい。そう思います。

私は、「共感」は単なる想像力の欠如であり、むしろ、「自分は他人のことなど分からない」という謙虚な態度こそが、他人の尊重を生むと思います。

道徳を構築するのは、謙虚さと、そして論理性。

「自分に置き換える」とは、共感することではない。

自分と他人の立場を捨象して共通の原理原則で、論理的に判断することこそが、道徳の根本だと思います。

他人とは絶望的に自分は異なっていると同時に、吐き気をもよおすほどに所詮人間は同じでもあるのです。そこに救いと絶望がある。片方だけ見ていては、何も見えないのと、同じだと思います。