慈眼寺 副住職ブログ

掃除と「自由」

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180704-00043462-sdigestw-socc

人間って、負けたときにこそ真価が問われると言いますか、コーチしてたときにも、

「上手いやつが部活楽しいのは当たり前。毎日勝って気分ええやろ。でも、全然勝てへんのに毎日練習に来て負けて、あんまり打たせてもらえないのにコートを掃除してるレギュラーじゃないやつらが、一番このクラブで輝いてるし、いい経験してるで」

と、言っていました。

気持ちが切れないように、という気持ちもありますが、本気です。自分も負けてばかりの人間だったので。

サポーターの会場掃除の件も海外で賛否を呼びました。

正直、これで日本すごい!と言われても、自転車で山奥とか行ったら不法投棄を嫌というほど見れますし、お祭りのあとの河川敷もひどいもんです。毎朝5時に掃除してますが、毎日何本も吸い殻を拾っています。

喫煙者を過剰にいじめる風潮は嫌いなのですが、車の窓から灰を当たり前のように捨てるのは、本当に立ち止まって考えた方がいいし、いわんや吸い殻をや、ですよね。ものすごく残念な気持ちになります。

別に日本が特別きれい好きだとは全く思わない。

ただ、日本では掃除というものは、単なる清掃活動ではなく、精神的な行為を表していると思います。神道的な「きよめ」ですよね。塩をまくとかそういう宗教的行為の一環かと思います。

海外で日本の子供が学校で掃除をしているというと、すごく驚かれましたが、同時に「清掃業者の仕事を奪う」とか、ナンセンスなことを言っていました。コストカット大好きなんちゃうの?あんたら。コレもまた、戦前の教育の名残ではありますが、悪いこととは思わない。自分で使うところを自分で掃除する。ただ、その結果、プロがやるより汚いなら意味がない。でかい声であいさつばっかりさせて気持ちが籠ってないのと同じで、カタチばっかり追い求めても、これまたナンセンスだと思います。

掃除が精神的な行為であるがゆえに、掃除は状況に左右されているわけです。つまり「目に見えないところでは捨ててもいい」ということ。だから結局日本はきれいにならない。ゴタゴタ言わずにプロを雇ってるシンガポールの方がはるかにきれいなわけです。

「向こう三軒両隣」なんて言いましたが、今は表を掃除するのは60代以上。若い人はそんな感覚全然ありません。でもアレだって「世間体」という「他者の目」に強制されて、村八分を恐れてやってることでもあったわけで、そういう意味では全然褒められた文化でもない。掃除しながら町内の噂話やってりゃ、精神的には結局町を汚してますからね。

そもそも、いま、働ける世代の人は忙しいので、家の前を朝晩掃く時間なんてない。だから庭付きのお屋敷は売れない。昔の高級住宅地がゴーストタウンになっちゃってます。

もはや、精神性だけで掃除を語るのは限界が来ている気もします。プロを呼ぶにもどこもかしこも人手不足。合理性をひたすら追い求めた先の社会は、こんなもんになっちゃったのか、と思う半面、「まぁ、そっちのほうが楽だよな」と思ったり。

ただまぁ、こうやって負けたときでも勝ったときでも、いつでも「当たり前」にできるようになるまでになれば、どんなにとるに足らないことでも、あんまり合理的でないことでも、やっぱり大したもんだなと。「そうでない」人との差はやっぱり歴然としちゃうものです。

特に、今の若い人は、別段強制されたわけでもなく、自然とこういうことできちゃう人がいる。そんで気取らないメッセージなんかも残せちゃったりする。まぁアピール上手と言えばそれまでですが、「黙々と隠れていいことやってた」って逸話も結局最後は紹介されないと美談にならないはずですからね(笑)アピールのやり方が変わっただけです。

ホント、世の中は「変わって」いるのであって、そこに「よくなった」とか「悪くなった」とか価値づけるのはほとんどの場合錯覚です。そして良くも悪くもないのなら、「選択肢」があることがより良い状態である、と私は思いますので、世界は良い方向に向かっているのではないかな、と思ったりしています。

まぁ、「選択肢がある」ということは、「選ばなければならない」という新たな不自由を生むのではありますが。

「人間は、自由の刑に処されている」

10年で世の中ずいぶん変わりましたが、次の10年はどうでしょうかねぇ。

とりあえず、門前を掃きながら、眺めるとします。