慈眼寺 副住職ブログ

今日限り会える日時計

今日は娘の幼稚園の父親参観の日でした。

最近は忙しくて娘の送り迎えもほとんどできていないので、本当に久しぶりの幼稚園。

最初に心を掴んだのが、年少さんの小ささ!

娘は年中で、一年大きくなっただけなのに、年少さんがかわいいったら!とにかく幼い!1年前って、こんなだったかしら!?ってびっくりします。あんまりかわいいので、近づいてじっと見ていたら、知らん間に年少さんに囲まれて、延々順番におんぶさせられる羽目に!でもかわいいから許すっ!

そしていよいよ参観日が始まるのですが、本当にみんな成長しているなぁと。去年はママから離れられなかった子とか、家から持ってきたタオルを手放せない子とかいたのに。耳が痛いくらいのあいさつをして、ゆずりあったり、順番を待ったり、逆上がりできる子なんかもいて!

耳を澄まして聞いていても、ほんとうに汚い言葉がないんですよね。

ありがとう。

ごめんね。

いいよ。

まーぜーて。

いいよー。

語彙が少ないせいもあるのかもしれないけれど、本当にみんな楽しそうで、しあわせそうで、きれいなまんまで。なんかよその子も含めて眺めてるだけで涙が出てきました。別に自分の職場の子たちも楽しそうにしてるんですが、やはり別次元といいますか。

こどものころは、みんなこんなに楽しいんだ。

キラキラの度合いが違うんですよね。一点の曇りもない。何をやるにも全力で。

いままでさんざん子供のこと見てきたはずなのに、集団として今目の前で全員がキラキラ輝いているのを見ると、やはりその「圧」というか、まぶしさがすごい。まぁ、よごれていくのも成長なのではありますが、今はこの目の前の、今しか見られないこの子たちの姿を見ておきたい、という気持ちでむねいっぱいになってしまいました。

おとうさんの歌を歌ってくれたとか、こんなことができるようになったとか、色々考えて下さったとは思うんですが、そういうことより、ただただ目の前の「おさなさ」という圧倒的な何かを感じていたい、というのが何より先にきました。そのへんはかえって普段接している先生には見えないかもしれません。「できるようになったこと」より、「できないこと」を見ている方がしあわせな気持ちになれました。

来年はきっともっと「赤ちゃん」から「子供」になってしまっていると思うので、それはそれで、「できる」の方を楽しめるとは思うのですが、いまはこの、「できる」に対する「ほめてほしい!」という気持ちの「隠せなさ」をただただ見ていたい。そんなふうに思いました。

幼稚園に限らず、それぞれの瞬間が二度とない瞬間、だとは思うんですが、やっぱりちいちゃい子の「いっしょうけんめい」は、胸にきますね。昔塾で働いてたときも、小学校4年生とかすごくかわいかったもんなぁ。久しぶりに、小学生を教えたくなりました。

いま横のテレビではなんかまだまだ幼い女の子を長時間ランク付けするような悪趣味なことが行われていますけれども、よそさまの子ながら、こんな目にはあわせたくなぁ。ざんこくだなぁと思いますね。生きていくってこういうことなのかもしれませんけど。みんながオンリーワンとか、そんな陳腐な言葉でごまかすのも嫌いなんですけれども。

すくなくとも、いまは、いましか見られない、この「いっしょうけんめい」に溺れていたいですねぇ。