慈眼寺 副住職ブログ

目を背けず

今日もブログに書くことがないなぁなんて、気楽にダイエットの話なんか書いて、お風呂に入ってTVを見たとたん、

「アカン」

と思ってしまいました。

きつかったですね。

自分の体重がどうのこうのと書いた直後に、やせ衰えた身体にむち打って高座にのぼる歌丸さんのドキュメント。

小さいお子さんがいながら若くして病と闘うお父さん。知的障害の娘さんを心配しながら逝った90歳のおかあさん。

「人生の終い方」

という番組でした。

もう、涙なしには見れない内容で、奥さんと私がボロボロ泣いてる横で娘が遊んでいるというカオスな風呂上り。
きついです。

突然なんとなくつけた番組だったんですが、もう目を背けられない。普段は必死で忘れようとして自転車乗ったりバドミントンしたりしている、そんな自分に突き付けられる「死」という必ず通るみち。

自分はあんなに気高く死ねるのか。

でも、死ぬときに強いも弱いもないな、とも思っています。
うろたえて醜態をさらしてもいいと思ってるんです。
子供にはそんな姿を見せたくないって、よくいいますけど、人間ってそんなに強くないでしょ。

TVとかでは残せないような、きれいじゃない話も含めて人生ですし。
そんなことで親のことを悪く思ったりも私はできないし。

でもひとつ。
このブログ何のために書いてるのかなって。
個人情報ダダ漏れだし、たいしてアクセスもないし(笑)ここでお説教したいわけでもないんですよね。

最終的には、娘が、私が死んだ後に、読んでくれたら最高だなって、ちょっと思いました。

まぁ、本当にしんどくなったときのことはなかなか書けないですけど、元気な時のお父さんはこんなこと考えてたんだなって、思ってくれたらいいなって。

しかし覚悟をもって生きる人間というのは、いつも心打たれます。
あ、間違っても特攻を賛美するとかはありませんけど。その点に関しては左翼だアカだと言われようと。

覚悟を他人に強要するのは最低の人間のすることです。まぁそれは違うテーマの話ですので。

覚悟というのは、どこまでも自分だけの問題です。
どういう生き方を選ぶのかという問題です。それを誰かが賛美するかどうかということを超えた、自分だけの問題です。
ある意味では家族とも関係がない話です。

毎日毎日、日本だけで3000人人が亡くなっています。世界では3秒に1人子供が貧困で亡くなっていると聞いたことがあります。

覚悟があっても、なくても、ふいに私もあなたも死ぬわけです。
もしかしたら、死ぬ覚悟をする余裕がある人は、ある意味で幸せかもしれない。
逆に、ふいに死ねたほうが、幸せかもしれない。

ですが、「死ぬ」という、絶対的に確実で、絶望的に理解を超えた世界を前にして、我々の覚悟などというものはあまりに無力である気もします。

宗教にたずさわるものとして、何か答えを出さねばならないと思うのですが、やはりできません。
出せている方はすごいと思いますが、それが正しいのかどうか、確かめるすべは生きている人にはない。

わからないことをわからないといいながら、死ぬのはこわい、死ぬのはこわい、と、お坊さんにあるまじき、というよりお坊さんとして一番ダメっぽい生き方をしてしまっている副住職です。副がとれてもたぶんそうだと思います。正直なとこしかとりえがないです。