慈眼寺 副住職ブログ

自由の顔をした人生

最近やくよけによく30代の女性が来られます。
昔はやくよけといえばほぼ42歳の男性だったのですが、女性の33歳、37歳の数の方がかなり増えている気がします。
単純に、女性の30代の厄は前厄、後厄をあわせて6年もあり、32歳からは35歳の休みを挟んでずっと厄年が続くことになるので、30代の女性は単純に多いように感じるのかもしれません。しかし、ずっと厄除けをしてきた住職までが「女性が多い」と感じているようです。

こちらからは特に何も言っていないのですが、「女性の厄はここが専門」と言っておられる方がいてビックリしたこともあります。

「ここでお願いしたおかげで子供が授かった」

と涙ながらに感謝される方もいます。

「旅行でふと立ち寄った時にご祈祷をしてもらったら、病気がぴたりとやんだ」

と毎年お参りにこられる女性の方もいました。

そういうときは私も住職も素直に「ご本人のお心がけと仏様のおかげであって、うちの力ではないですよ」と答えています。本気です。
慈眼寺は神通力、霊能力のたぐいを売り物にするお寺ではありませんので。

それはさておき、男性よりも、女性の方がコミュニケーション能力が高く、色々話する機会が多く、事情を伺うことが多いのですが、みなさま色々な悩みがおありになるようで、今の日本の30代女性というものの置かれている状況が一言には言えないような状況であることを感じます。

昔は20代前半でほとんど結婚し、30代前半までに出産をたいてい済ませて、あとは当たり前のように主婦として家庭におられたものですが、今や時代は一変してしまいました。仕事をしているのは当たり前。結婚も出産も全体的に年齢層が上がり、そもそもそれらを「しなければならない」という認識は過去のものになっています。すべては自分のライフスタイルに合わせて、自分で選び、決めていく時代。右へならえで皆が同じ人生設計をする時代ではありません。「”ふつう”なんてない」時代が、現代です。

そんな時代に、何も考えずに好きなことを追いかけられた年頃を過ぎ、30代になってこれまでとこれからを考えて、きっとさまざまな惑いがあるのだと思います。仕事・結婚・出産・家庭・教育・・・。ありとあらゆることの選択肢や困難や夢や希望がいっぺんに訪れるときが、女性の30代なのかもしれません。

昔の30代とは比較にならないほどに大変ことが、「自由」の顔をして押し寄せているのかもしれません。

何をしてもいいよ。いつしてもいいよ。どんなふうにしてもいいよ。

自由というのは素晴らしいものですが、同時に恐ろしいものでもあります。
自由には責任が伴います。

「自己責任」なんていう言葉が急に嫌な響きを持ち始めたのもここ最近の風潮でしょうか。
何でも自分で選んでもいい、というのは、「すべて自分で決めなければならない」ということであり、誰にも助けてもらえず、誰にも教えてもらえない、心細い状況でもあります。

サルトルが「人間は自由の刑に処されている」と言い、フロムが「自由からの逃避」と言ったように、自由というのは、本質的には居心地の悪い、厳粛な状況なのかもしれません。

こんな多様な現代でも学生時代はやはりまだまだ圧倒的に画一的です。こんな社会でも子供たちは一昔前のような「30までに結婚して・・・」みたいな人生設計を疑っていません。どんな形であれ就職していくのもやはりある程度画一的でしょう。しかしそのあとは・・・実に様々な人生があります。誰かを参考にしようにも参考にできない、参考にしたくてもできないのが人生です。私だってこんな41歳になっているなんて想像もつきませんでした。

女性の話から始まりましたが、数え歳42歳の私の同級生の男性も実に多様です。親御さんに言われてこられる方。家族で来られる方。同窓会代わりに毎年みんなで集まってこられる方。61歳の男女も実にさまざま。そしてこの60前後の方の娘さんが30代の厄の女性であったり、25歳の男性であったりするわけです。

生老病死、すべてが苦である、というお釈迦様のお言葉が身に染みて感ぜられます。

そうです。今日、2月15日はバレンタインデー翌日・・・ではなく、釈迦入滅の日。「涅槃会」の日。ひらたく言えばお釈迦様が亡くなった日です。お釈迦様でも亡くなるわけです。何不自由ない王子様が奥さん子供すべて棄てて修行の道に入ってしまって、悟りを開いて、動物たちに囲まれて亡くなった日です。

自由の顔をして、その実全然自由にならないことばかりの不自由な人生です。悩み、惑い、不安ばかりの毎日です。

それらを全てなくすことなど誰にもできません。ただただ、「でも、人生って、そういうものなんだよな」と受け容れること。その態度。

それが仏教なんだと、思っています。