慈眼寺 副住職ブログ

政治の話をちょっとだけ

こんな話をするのは馬鹿者です。

昔から、「田舎でしてはいけない話」というのがあります。すなわち、宗教・政治・野球です。
そのうち毎日のように宗教の話をしながら、さらにその上政治の話をするなんて自殺行為です。
そんな古くからの叡智を無視して、今日はほんの少しだけ政治の話をします。ちなみに野球は不本意ながら阪神ファンです。

 

「民主主義の学校」は・・・

最近こんなニュースがありました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150329-00000003-mai-pol

4月に予定されている統一地方選では、選ばれる議員の5分の1が選挙を経ずに議員になれる、という衝撃のニュースです。
つまり、5試合のうち1試合が不戦勝。誰もわざわざ対抗馬として出ていない。政治に興味がないのと、ガチガチの票固めに割って入る新人がいないということでしょう。地方選挙は浮動票が少ないですから、ジバン・カンバン・カバンの有利さを覆すような投票率がまず期待できない。なので、確実な組織票を持つ人物が不戦勝をする、ということです。そして驚くべきことに、定数を削減したにもかかわらず、無投票当選の割合は増えている、というのです。

そして選ばれた議員の「センセイ」がどんなお仕事をなさっているか、についての衝撃的なニュース。

http://blogos.com/article/67881/

地方議員の存在意義は0.17%と言っても決して暴論ではないように思います。平たく言うと、地方議員の「センセイ」がたは、首長の提案する条例案をそのまま賛成して手を挙げるか、反対まではしないまでも嫌味を言ったり、全く関係ないことや雑感を述べているだけで、立法府としての役割を全く果たしていない、ということになります。もしくは、立法府の役割を議員が果たせないような構造になっている、と言えば、より中立的な表現になりますね。

「地方自治は民主主義の学校」などと言いますが、だとすればこの「学校」は完全に定数割れ、かつ、学級崩壊していることになります。

ちなみに奈良市の市議会議員の月給はだいたい64万円ほど、大阪府だと97万くらいでしたか。奈良県は778000円ですか。
http://area-info.jpn.org/RKSenatPyAll.html

さきほどの学校の例で言えば、学級崩壊で授業は全く行われず、定数割れで、授業料だけめちゃくちゃ高い、ということですか。おおコワッ!

もちろんちゃんとした人もいる・・・はずですけど

もちろん、「地方のセンセイで、立派に仕事をしている熱心な人もいる!」という反論は当然です。いるでしょう。立派な人。ですが、その割合はこうした数字から、相当少ないことが予想されます。立派な議員もいることは間違いない。ただし、個人としてまともな議員がいることと、地方政治のシステム自体がまともかは全く別の問題です。ただ単に定数を大幅削減すれば解決するかどうかは議論の余地がありますが、どんなに控えめに言っても、仕事をしていない地方議員のために支払われている税金が相当な額になることは間違いないでしょう。

「政治について語ること」の意味

私はどんなに民主主義が腐敗しても選挙権を行使します。選挙大好き人間です。
子供を寝かしつけているときに選挙カーで大音量で「お願い」をして、まさに寝た子を起こしたり、選挙前になると思い出したように駅前に立つのが主な仕事の「センセイ」たちですが、彼らの「具体性って、何ですか?」と聞きたくなるような政策らしきものを見比べて、絶望的な作業をしなければなりません。国民の権利であり、義務ですから。(ちなみに国政も同様で、衆議院議員を半分に、参議院は無くしていいと思っています。)

日本では、政治について発言すると、何らかの結社やイデオロギーに傾倒した、「プロ市民」や「あぶない人」みたいな扱いになってしまうのは、とても悲しいことです。普通の主婦や普通のサラリーマンが「普通の人」のまま、政治活動をできる世の中になればいいなといつも思っています。そして、人間関係で投票行動を決めてしまうのも非常に反・政治的行為だと思います。人物と政治は全く関係がない。

「公の民」であること

中学で歴史のあと中3でやっつけで習う社会の授業を「公民」と言います。政治についての授業です。この「公民」であること、の意味合いを、もう一度考えてみる必要があると思います。

カントは「世界市民」=コスモポリタンという概念を大事にしました。自分の立場や役職などを離れて、世界市民的見地に立って行動すべしと。つまり例えば、警察官であっても警察組織の腐敗を追求すべきだ、ということです。それで同僚が失職するなどという個人的立場は忖度すべきではない。

ロールズは「無知のヴェール」という概念を作り出しました。自分自身の出身、家族関係、職業、財産などの個別的状況を一切知らない状況、すなわち自分が誰かも分からない状態に敢えて身を置いて、そこで選択される原則こそが、社会全体の幸福を追求する「正義」の原則である、ということです。地方議員は全員不要という主張は、自分が市議会議員ならなかなか選択できない。ですが、自分自身をヴェールで包み、自分が何者かをわからないようにしたとき、「ああ、確かに市議会、なくていいな」と思えれば、それが正義である、ということです。そして「ヴェール」を取り去ったとき、自分の失職を知るわけです。これはその個人にとっての不幸ですが、社会全体では正義が達成されたことになる。

逆に、「生活保護など必要ない」などという主張を選択することは、「ヴェール」に包まれているとき、非常に難しい。「ヴェール」がなく、自分が富裕層であれば簡単に選択できるその主張も、「ヴェール」に包まれていれば「もし、自分が貧困層のメンバーだったら・・・」という理性的な判断が働けば、なかなか選択できないわけです。

政治とは人間の利害の調整ではありますが、それは決して個人的な人間関係の調整ではないはずです。ご近所さんが立候補したからといって投票してあげる必要は全くありません。あくまで、一市民、一県民、一国民、一世界市民として理性的に判断し、ときにはヴェールに自らを包んで、自分のしてき幸福に目をつぶって社会全体の幸福を目指すべき行為が政治だと思います。このあたりをルソーは「一般意志」という言葉で表現していました。思うに、ロールズの「無知のヴェール」は、ルソーの一般意志を丁寧に基礎づけたもの、すなわち近代的理性の再構築の試みであったとも言えます。

このように、我々は血肉の通った生身の友人知人親戚に囲まれた個人であると同時に、常に「公=おおやけ」に対して開かれた視点を持っていなければなりません。社会全体のことを常に考えて、自分自身の私利私欲を捨てる。公務員だけにそうした清廉性を負わせるのはお門違いです。我々は、すべて「公民」なのです。

現実に私たちができること

しかしこのような理想も、そもそも選挙するべき選択肢がそもそもない、という状況の前にはあまりに無力です。
選挙には行かねばなりません。投票しなければなりません。何も立派な人を探す必要はありません。よりマシな人を探せばいいのです。全員ダメだったらどうする?Aさんもダメ、Bさんもダメ。その場合は、長くやったほうをクビにする必要があります。どちらもダメを前提にすると、同じダメ議員が長く居座ることの弊害に思い至ります。ダメ同士を適度にかき混ぜないと、腐敗してしまいます。適度にかき混ぜるために選挙に行かなくてはなりません。

しかし、一つだけ忘れてはならないのは、議員さんは我々の代表だということです。もし議員さんがダメならば、そのダメさの源泉は、他でもない我々自身です。政治家のセンセイを尊敬する必要は全くありません。頭も下げなくてもいいし、握手もしなくてもいいです。なぜならば、彼らは私たち自身なのですから。尊敬も軽蔑もする必要はないのです。我々は我々自身のお金や安全の管理を、議員に委ねている、もう一度そのことを思い出し、健全な民主主義のために我々ができる唯一の行為、投票をするしかない、のだと思っています。