慈眼寺 副住職ブログ

真理(2)

昨日は、「主体的に調べる」という行為が「情報の為替差益」効果と合わさると、いとも簡単に「真理」が生まれる、という話をしました。

そして、「主体的に調べる」という行為自体に、大きな問題があります。私たちはスマホを手にして、グーグルでわからないことをすぐ調べます。便利ですね。ウィキペディア。なんでも載ってます。詳しいです。ただ、ネット上の情報は誰が書いたのか、何がソースなのか不明瞭なことが多いです。そこにソースを求めていくと、結果的に書籍になってしまい、インターネット普及前の状態と結局同じ「権威」に従っているにすぎないことがわかります。さらに言えば「出どころが不明瞭な権威」なので、確度はさらに落ちます。

さらに、ネット上の情報にたどりつくまでに、既に我々の情報はバイアスを受けています。Googleに顕著ですが、検索エンジンには検索候補が出ます。これは多くの人が検索した実例に則って候補を出します。それだけでも多数派が正しいとは限らないですが、そもそも検索された結果には自分の検索履歴も反映されています。よく、楽天が勝手にオススメ商品を表示したりアマゾンが勝手にオススメ本を紹介することがあるでしょう。アレと同じように、知らぬ間に検索エンジンは、調べる人の住所、年齢、検索履歴を調べ、本人が欲しがる傾向のある情報を優先して表出する場合があります。g-mailのアドレスを持っている人は特に注意が必要です。便利なので常にサインインしていると、知らぬ間に検索順位が自分好みにカスタマイズされています。自分のアクセス履歴によって検索結果の順位は変わっています。本当の客観的なアクセス数順の検索順位を知るためには一度ログアウトしなければなりません。スマホ中心だとそれがさらにわかりにくくなります。かく言う私も、そんな基本的なことを最近ようやくわかった愚か者です。結局「主体的」だと思っていた行為は全然主体的ではなかったということになります。たとえログアウトしたとしても、そうやってたどり着いた「客観的」順位すら、アクセス数や宣伝費、SEO対策などで加工された順位に過ぎません。

つまり、我々は、ある意味で我々の見たいものばかり優先して見ている、ということです。

そもそも本質的に人間は自分の都合のいいこと、自分が受け入れられる事実だけを、「真理」だと認めたがる傾向がありますが、サーチエンジンというのはそのあたりの人間の機微を実によく捉えて、ストレスのない検索を行う。ストレスのない検索とは、本人の欲する情報であり、本人が見つけたい真理であり、ときには本人が必要とするものなら嘘でもありえます。最近の感動話のシェアなんかもそうですね。みんなよっぽど感動したいんですね。

私が言いたいのは、インターネットの中に真理はないし、その外にもない、というありふれた結論です。「真理」は本人の頭の中であらかじめ決定されて捏造されたもので、あらゆる事実や物体そのものはあらかじめ無価値です。価値はこちらが決めることですから、当然です。「スマホが便利だ」というのは人間にとってのみの真理であり、ゴキブリにはスマホはなんの魅力もありません。

ただ、インターネットが普及してこれまでよりよくなったことは、情報の検証ツールが格段に増えたということです。もちろん口コミや☆の評価は操作可能ですが、日本中、世界中の人が情報を発信できるようになり、情報発信はマスコミだけの特権では既になくなりました。インターネットの発達ではじめてわかるようになったことはたくさんあります。しかし、逆に言えば当然インターネットの発達のせいでかえってわからなくなったこともたくさんある、というのもまた、当然予想されるシンプルな結論です。新たな薬が生まれれたということは新たな副作用が生まれたということです。だから、我々は副作用とも付き合っていかねばならない。

便利な道具ができても、結局それを使うのは人間です。書物でもPCでもスマホでも同じ。さらに言えばリアルなクチコミですら、正しいとは限らない。大多数の意見が正しいとも限らない。科学的証拠という最終兵器があるように思いますが、科学には科学の限界もあります。あ、私は「科学の及ばない神秘の世界がある、考えるな、感じよ」の類の霊感などは一切信じません。本屋さんの「精神世界」に置いてある本は90%ゴミだと思っています。10%は本屋さんの分類ミスです。ここで言う科学の限界というのは科学という方法論そのものに内在する限界です。それは話すと長くなるのでまた今度にします。

世の中は情報の爆発的な増加と反比例して、短文化、簡潔化、最終的に絵文字へと情報をどんどん少なくしたいという欲求が加速します。触れうる情報が多すぎて人間の処理能力を越えるからです。ですが、「最短距離であること」は結局「真理」について何も保証しません。そもそも「真理」にゴールはありません。多数派が正しいわけでも少数の天才が正しいわけでもない。常に情報を検証し、考え、考え、考えて、その結果自分で常に疑い続ける過程が「真理らしさ」を限定的、蓋然的に保証するのみです。

絶対的な真理などありえない。これは仏教徒だけでなく、あらゆる人間が前提とするべきものだと思います。え?“「絶対的な真理などありえない」は真理なのか?”いいですねぇ。その考えは既に1800年くらいまえに竜樹が到達した境地です。

今日の長々としたありふれた駄文で言いたかったことを短文でまとめますと「最短距離で真理にたどり着こうという行為は、サプリメントだけで必要な栄養を全て揃えた食事と同じだ」ということになります。鍛え抜いた酸いも甘いも噛み分けたおっさんおばさんの舌だけが「美味」を味わっているのです。その一方で、ハンバーグの乗った寿司が一番美味しいなら、それでお腹を満たせばよろしい。それもまた美味です。栄養をとるだけならセサミンでもDHAでもビタミンCでも摂ればよろしい。そしてレモン○個分のビタミンC!とかいう決して多くないビタミンCを摂取して「健康」になられればいいかと思います。どちらが正しいなどと、誰が決められましょうか。

真理は常に変わるもの。常住不変な実体など存在しない。真理とは賢者のみが辿り着けるものでもなく、さりとて多数決でも決して決まらない。ごくごくありふれた仏教的「真理」でございます。