慈眼寺 副住職ブログ

十夜のあれこれ

先日、慈眼寺でお十夜の法要が営まれました。

「お盆」や「お彼岸」は有名ですが、「お十夜」はそうではありません。

なので、学校の仕事を休むときにも「お盆なので・・・」というと「忙しいですもんね!」と言ってもらえるのですが、「お十夜で・・・」といっても「ナニソレ?」という感じで共感を得づらくて、ちょっと心苦しいです。

大まかな説明でいうと、ここがわかりやすいでしょう。

https://jodo.or.jp/everyday/event/juyae/
 
これをそのまんま紹介してもちょっと芸がないので、少し私らしく解説していきます。
 
現在は一日で行われる行事ですが、かつてはその名の通り十日間ずっ続けで行われていた行事です。
 
上のページでも
室町時代の第6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の執権平貞経(たいらのさだつね)の弟平貞国(たいらのさだくに)が世の儚(はかな)さを感じて、仏道に生きようと京都の真如堂(しんにょどう=天台宗・真正極楽寺(しんしょうごくらくじ))にこもり、十日十夜の念仏行を行ったことが始まりとされています。
とあります。
この平貞国が、3日間真如堂で念佛行を行ったあと出家しようとしていたところ、夢にお坊さんがあらわれ「もう往生は決まってるし、俗世でやることあるし、無理してお坊さんにならなくていいよ。とにかく三日待って」とお告げがありました。そして三日後、兄が将軍様の不興を買い、クビになり、急遽執権職に就くことに。義教が「じゃああと七日念佛行をしたら?」と言ったので、貞国が念仏行を行ったのが十夜のはじまり、ということです。が・・・
 
もう登場人物が濃い。
 
義教といえば、「くじ引き将軍」で有名な元天台座主。跡継ぎがいなくなったので、4人の息子からくじ引きで選ばれ、急遽還俗して将軍になった人、なのですが・・・とにかく気性が激しく、当時の後花園天皇の父、後崇光院の日記のなかで

「薄氷を踏むの時節、恐るべし恐るべし」

「万人恐怖、言うなかれ言うなかれ」

などと思いっきりビビられている怖い怖い将軍です。もと天台座主だったのに比叡山と対立して包囲、包囲を解いた後安心した比叡山の僧侶4人のクビをはねちゃいます。結果比叡山の僧侶たちは抗議の意を示すために根本中堂に火を放ち焼身自殺を遂げます。

まぁとにかく激烈気が短い上に執念深い。貞国はある意味義教と境遇がかぶるのですが、さぞや「恐るべし恐るべし・・・」と思いながら勤務していたものと思われます。この世を儚んで出家しようとしたのに、思いっきり現世で地獄のような日々を味わっています。ほんとは順番が逆で、義教の執権をして出家したくなった話の方が納得できちゃう。

そしてこんな魔王みたいな将軍ですので思いっきり恨みを買いまして、嘉吉の乱で家臣に暗殺されるという非業の死を遂げます。

別の説では、十夜会は後花園天皇が真如堂に伝えたものであるという説明もありますが、こっちは和歌に秀で、三種の神器を奪われたりしつつも、現在の皇統の元になった天皇だったりして、たぶんこっちを紹介したほうがあっさりしていいのかもしれません。

さらに十夜を舞台にした「心中天網島」という文楽の作品もあります。

こちらは大阪の網島という現在の都島区で起こった心中事件をもとに近松がかいたものでありますが、この心中は十夜の夜に決行されます。これはすなわち、「十夜に死んだ者は極楽往生できる」という当時の風説を信じたから。当寺「十夜」という行事が庶民にとって非常に大きなものだったことがわかります。

あの有名な「曽根崎心中」も、実は西国三十三か所巡りのあと、今は「お初天神」と呼ばれるようになった露天神で心中するお話ですが、三十三か所とは観音菩薩が三十三の姿に変化することに由来する数字。そして本地垂迹説でいえば天神の本地は十一面観音菩薩であったりします。だからこそ、「曽根崎心中」の結びの

「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり

という言葉が生きてくるわけです。

この時代仏教がいかに生活に深く根差していたかがよくわかるような気がします。

とはいえ、心置きなく修行できる極楽よりも、煩悩にまみれた現世で念仏を唱える方がはるかに意味があり、現世での十夜の修行が極楽での千年の修行に優る、というものが本来の教えでありますので、心中しちゃうのは逆効果!なのではありますが。
 
みなさん生きてこのしんどい世界でお念仏を唱えましょう、というお話でした。