慈眼寺 副住職ブログ

「菩薩」としてのアインシュタイン稲田

以前このブログで「見た目問題」について若干愚考したことがあります。

「見た目」の暴力的で絶望的な支配構造

あれからもう5年!なんと月日が経つのは早いのか。

そして世の中の「見た目」に対する執着はますます衰えることがないようにも見えます。男性のエステなんていうのがもはや、若い世代には「普通」と言われる時代に、もう突入しているようです。とはいえ、この「見た目」への若い世代のコミットの仕方は、非常に複雑で、自己肯定感への渇望と表裏であるような気もしているのですが、そのことはまたの機会に。

こんな時代に、面白い記事を見ました。

お笑い芸人アインシュタイン稲田さんに関する記事です。

アインシュタイン・稲田直樹、イジリをイジメへと転化させない芸人としての「力量」

そもそも、お笑いにおいて「外見いじり」というのは長らく鉄板ネタといいますか、お笑いの歴史とともに牧歌的に存在してきたジャンルといえます。一人がいわゆる「シュッと」していて、相方の「不細工」ぶりをいじる。ハゲ、デブ、ブスなど、「わかりやすい」外見のハンデとされるものを、無邪気に笑って遊ぶ。実はもうすでに一般社会ではそういうことはタブーになっているのですが、唯一お笑いのジャンルだけは、「本人がネタにしているからOK」という免罪符を借りて、現在でもごく当たり前に行われています。むしろ芸人にとってユニークな外見をしていることは「おいしい」とさえ、されています。

しかし、もうそろそろ限界なんじゃないかな、と感じています。なんでも海外に合わせればいいわけではないですが、欧米ではこの手のネタはずっと前からアウトになっています。外見に突っ込んでいくと、結局「人種」や「病気」といった「本人の努力でいかんともしがたい」部分に立ち入らざるを得ないのです。さらには、一般に努力で克服できるとされる「体型」の問題も、「自分らしさ」という観点では自分で選択した結果という形で、他人がどうこういうべきことではないという考えが徐々に浸透しています。

つまり、「外見」を安易な笑いのネタにするのは、どんどん難しくなってきているのです。そして、私はそれが当たり前だと思います。

そもそも、お笑いで「ブサイク」とされるキャラクターの人を見ても、実際には本当に醜い、とはほとんど感じません。そのへんは、「ビジネスブサイク」と言いますか、「TVでのブサイク役」とでもいうべきものを演じている、といいますか。アレは一種の「記号」なのだなとおもっています。個人的には、「ブサイク」をいじる「シュッとしてる方」のはずの方に、往々にして自己を顧みることのない無根拠な優越感のようなものを感じて、そっちの意識の方が「醜いな」と感じることが多いです。

そして稲田さん。

まわりの芸人さんの評価が面白いですね。さすが言葉をお仕事としているといいますか。

「心の彫りが深い」

とか思いつきませんもん。

実際彼の「心のイケメンぶり」をあらわすこんな言葉があります。

 

「吉本のブサイクランキングなんか、僕にとっては地方予選。勝って当たり前なんで、弱い者イジメしてるみたい」

「僕はプロのブスです。だから何を言われても大丈夫です。だから一般の方に冗談でもアインシュタインの稲田に似てるというのはやめてください。特に女の子。言葉のナイフです」

(どちらも「よしもと男前ブサイクランキング2019」グランプリ授賞式にて)

 

そしてその「心の彫り」の深さを感じるのがやはり引用記事中のこのエピソード。

 

 学祭の営業でのエピソードも印象的だ。質問コーナーで、男子学生から「女にモテるにはどうしたらいいですか?」と尋ねられたときのこと。学生は稲田をイジるような態度だったという。そんな彼に対し、稲田は次のように答えた(『アメトーーク!』2019年7月25日)。

「まずは自分を愛すこと」

 インパクトある顔面をめぐり、その場に緊張が走りそうになったとき、稲田はしばしば緊張を和らげる言葉を一瞬の間合いを突いて発している。その言葉は融和的で、かつ、仕掛けてきた相手や周囲が依って立つ前提へと切り込む鋭さがある。

 “ブサイク芸人”がそろうと、どちらがより“ブサイク”かをめぐり言い争うさまが面白い、容姿をイジられた際にムキになって言い返す様子が面白い、そんな周囲が期待する前提を、稲田は柔らかい口調で裏切り、笑いに変える。なんだか、見た目を笑いに変えることへの批評性を感じ取りたくなるほどだ。

 

このくだりはこの記事を書いている人の一番言いたいところなんだろうなと思います。

つまり稲田さんのブサイクネタはブサイクで笑いをとりつつ、同時にブサイクネタで笑う人々の固定観念を相対化する効果がある。

「笑うだけ笑ったら、もうやめときや」

とでもいうような!

こういう笑わせ方はちょっと記憶にないですね。

稲田さんは幼少期から外見をネタにしていじめられたことがなく、芸人になるまで「ブサイクだと思ったことがなかった」と話します。まぁ実際、私も「そんなにブサイクかな???」とは思いますが、これは「外見などどうでもいいくらいに中身が素晴らしい」から、と結論づけてもいいですが、実際にはもっと奥の深い話なのではないかと思います。

私が一番嫌いな思考回路は、この話を「だからブサイクは内面を磨け」という結論に結び付けるものです。

そこには「ブサイクは努力して、好かれるようになれ」という「非ブサイク」側の優越的な目線がある。

そうじゃないんだと。

ブサイクはマイナスではない、いや、ブサイクもイケメンもいない。相対化です。仏教です。縁起説です。

 

あんたらいつまで外見にこだわってんの?

 

こういう破壊力が、稲田さんのネタにはあるのかもしれない。

そう考えると、アインシュタイン稲田という存在は、実はとっくに悟っているにもかかわらず、この薄汚い世界に敢えて留まり、悟っていない衆生の最後の一人が「向こう側」へ渡ったのを確認してから、ようやく「向こう側」へ渡っていく、「ブサイク世界の菩薩」なのではないかと。

象徴的なのが、彼が決め台詞としてネタで使うフレーズです。Tシャツにもなってるくらいです。

 

「もう顔捨てたろかな」

 

いやーもうコレは完全に仏教ですよ。悟りですよ。解脱してますよ。めちゃくちゃカッコいいです。

とっくの昔に蓮の上に乗ってます。

彼の存在が世の中の「見た目問題」をすべて解決する、とは思いませんが、お笑いの「外見いじり」に対するターニングポイントになればいいな、といつも思っています。