節分。
本日は節分。
先ほど娘と豆まきをしまして、副住職、「鬼」になってみました。
「鬼」になるからには怖がらせなくては!と本気を出したところ、娘が怯えて泣き叫んでしまい、復活までかなり時間がかかりました。
あまり反省はしていません。
なぜなら、「鬼」は怖くなくてはならないからです。
「鬼」は災いの象徴。丑の角と寅のパンツ。丑寅の災厄を意味します。同時に「隠」=オヌが語源とされることもあり、また、「鬼」という字そのものが中国語では「幽霊」という意味を持つことからも分かるように「死」の象徴でもあります。
「鬼」は最も忌避すべきもの。祓うべきもの。つまり、怖くなくてはならない。本気で怖がらせたからこそ、「福は内」が実現するのであります。とりあえず娘を泣かせた言い訳はこれくらいにしておきます。
初午の日は2月7日なのですが、今日がやくよけ大祭の日だと思った方が何人もお電話で確認をされたり、参拝されたりしました。もちろん、ご祈祷させて頂きました。
節分は季節の変わり目。厄難を転じて福を呼び込むという意味では午の日のやくよけと同じことであります。
節分であろうが、初午だろうが、二の午だろうが、何でもない普通の日であろとも、自分が「節目」と考えるときに、何かを変えるきっかけがほしいという思いが、やくよけに限らずあらゆる「まつりごと」のはじまりであろうと考えます。
ここ最近少しだけ寒さが和らいでくれておりましたが、さすが節分、初午の時期はしっかり寒くなってくれます。
お手伝いに毎年来ていただいて、水菜を水洗いしてくださる奥様は、「寒くないと、やった気がしない」と笑っておっしゃいます。
寒さが最も厳しいときだからこそ、それが底打ちとなって、春の始まりとなる。節分の翌日が「立春」なのはまさにそういう意味なのかと思います。
禍福は糾える縄の如し。
最も苦しいときこそ、のちのやすらぎの種が蒔かれているのであり、もっとも幸福なときこそ、それが失われていく始まりでもあります。幸不幸、生死、彼我が相対的で、あくまで「かりそめの状態に過ぎない」ことを認識する。何度もここで書いておりますが、これこそが真の意味での「やくよけ」であります。
「やくよけ」とは、究極的には、現世利益の加持祈祷を超えた、純粋な仏教的「解脱」へと至るものであるはずです。
平成30年(2018年)の初午大法要は2月7日(水)、二の午大法要は3月3日(土)に執り行います。
(両日とも朝8時から夜7時まで)
皆さまのお参りを心よりお待ち申し上げます。