慈眼寺 副住職ブログ

不便

最近、田舎に若い人が住むという移住の話をときどき目にします。
島根の「しまコトアカデミー」とか、東吉野村にアート関係の人を積極的に呼んでいるとか。

先日、我らがラガメンのジャージデザインをして頂いたアトリエキノピオの安田さんが、「TURNS」という雑誌で紹介されるというので、さっそくアマゾンで注文してみました。翌日夕方にはいきなり配達、便利な世の中ですなぁ!

安田さんはアトリエ自体もほぼ手作りみたいな感じで改装してるのは知ってたんですが、イタリア時代の話も含めて、「カネがなくてもやりたいことはできる。やれるようにやればいい」という姿勢、改めて読んで、すごくカッコよかったですね。

他にも京都の町家に住んでハンドメイドで洋服を作っている女性とか、やはり何かを創り出す仕事をしている人というのは、「手間」を「手間」と思わないというか、プロセスを楽しむと言いますか、そういう考え方、感じ方をなさいますね。

私個人は引っ越すとか一番不可能な職業なのではありますが、ずっと奈良に住みながらでも、色々感じるところはあります。

ときどきは電車に乗るんですが、面白いのが、通学時間帯、いろんな制服の高校生がいるんですよ。男子は分かりづらいですが、女子は分かりやすいので、だいたいは「ああ、あそこのコだな」というのは職業柄、よくわかります。

それで時間帯がクッキリずれてるんですね。もちろん部活の朝練で早い子とか、いつもギリギリな人とかで個人差はあるんでしょうが、通学に時間のかかる遠いところ、駅は同じでも不便なところに学校がある生徒さんたちと、駅前至便!みたいな学校では全然時間帯が違う。奈良市内同士でも30分は違う。

たとえば30分通学時間が違えば、往復で1時間違うわけですよね。毎日1時間違えば、一週間6日だとしたら6時間。月で24時間。ひと月で1日ぶん違ってくる。年間で12日。

家族と一緒にいられる時間が月1日多い。まぁ、余った時間家にいるとは限らないわけですが(笑)有効利用はできる。

私なんか高校は大阪だったので、無駄な時間を使ったな。子供が学校行ったら、やっぱり近くなのかな、とか思ったり、計算したりしながら電車に乗ってるわけです。

でも、今日はまた一つ違うな、と思うようになりました。もう一歩奥に入って考えるきっかけがさっきの雑誌です。

安田さんが、こんなこと言ってるんです。

「家ってこだわったらキリがない。家なんて中身やろと思うんです。豪邸立てても、夫婦共働きでローン返さなあかんと思ったら悲しい話。家賃が安いこの家なら、かみさんはずっと子供といっしょにおれるし、正解やなと。」

本質をついてるなって。

別に共働きがダメとか、そういう話じゃない。価値観は人それぞれ。で、そのそれぞれの価値観で、コレが大事!という優先順位をそれぞれつけて、それを追い求めていけば、おのずと形は見えてくる。

だから学校だって同じで、近くて便利な学校行って、友達一人もいなかったら意味ないだろうと。遠くて朝5時に起きて、元気に行く楽しみのある学校なら行ったらええやろうと。当たり前のことなんですけどね。たまたま自分は遠くて楽しくない学校に行ってただけのことで。通勤電車で読む本が最高やったら苦じゃないし、電車で勉強すると頭に入るってタイプもおるやろう。現にいま自分は毎日8時に出ても間に合う職場に7時に出発して、自転車で楽しく通勤してるやないかと。ひどいときは往復100㎞通勤とか謎の遠回りしてるやんかと。まわりからは異常な人、ストイックな人だと言われますが、逆なんですよね。世間に流布してる意味でのエピキュリアンなんですよ。

そうやって自分の価値観がハッキリすればするほど、一般的なものからは離れてくるわけで、そうすると、見ようによっては「不便」な暮らしをしているように見えることもあります。でも、その「不便さ」こそが自分のやりたいことなわけで、それは全然「不便」ではないわけですね。

「便利」というのは、もともとは「便通」を表す言葉らしいですね。汚いけど(笑)要はスッキリ出ると。まぁこんな使いかたは洋の東西を問わないですよね。「カタルシス」も元はといえば排泄行為の快楽を表す言葉ですから。

でもコレって本来、人と比べるもんじゃないですよね?

隠れた場所で、誰にも見られず、スッキリするもんですよ。やり方は自由!迷惑かけなきゃいいわけです。やり方は色々ある。なんかたとえのせいで議論が大混乱してますけど(笑)、「便利か不便か」なんて、本人次第なんですよね。そこやねん言いたいのは!(笑)

だから田舎暮らしとかIターンなりUターン、別にしなくてもええんですよ。やたら田舎暮らしに憧れる人とかいますけど、それこそ自分の中の価値観の問題ですよね。なんかファッションみたいに「ナチュラルな暮らし」とやらを求めて田舎行きたがるようなのは問題外だと思います。カッコつけてホントは好きでもないのに田舎で農業ごっこするってスタバでノートパソコンあけてる意識高い系と、結局同じですよね。自宅のベランダでも野菜作れますからね。まずはそれやってからですよね。ほんまに好きなんかと。

本当にそこで暮らす意味を見つけられたなら、段ボールハウスの中にも「ナチュラルな暮らし」はあります。きっとそう。

この雑誌も最後のページにそんな人載せたらもっと評価するな。「京都の町家の洋服屋さん」「イタリアでビルダー修業したデザイナー」「シェアハウス」ときて、「ホームレスの”ホーム”」。コレ、一冊で完成してしまうな。カッコよすぎるな。TURN、し過ぎてTURN OVERしてるか。それもまたよし。