慈眼寺 副住職ブログ

デビュー戦

戦ったわけではないのですが、こんな表現が分かりやすく。
本日、はじめて正式にお説教のご依頼を受けまして、東九条の紫雲山来迎寺さまでお説教をさせていただきました。
兼務しているお寺も来迎寺なので、ややこしいですが、兼務している都祁のお寺は涅槃山来迎寺。
みなさんあまり知らないのですが、お寺の名前って、実は同じ名前のところがたくさんあるんですよね。
「奈良 来迎寺」で検索するだけでも、なんと5軒。すぐに見つかります。5軒以上は確実にあるでしょうね。

こういうの、お寺に詳しい人やお坊さんには常識なんですが、案外知らない方もいるみたいで。

「慈眼寺」だと、「ああ、観音様あるお寺なんだな」
「来迎寺」だと、「ああ、阿弥陀如来がご本尊の、浄土系、もしくはそういう時期があったところだな」「阿弥陀寺」なんかは分かりやすいですね。そのものズバリですし。
「蓮」という字があったら、日蓮宗の可能性高いなとか、

だいたい大まかな想像はつくんです。

脱線しましたが。

緊張・・・はそれほどでもなかったんですが、やはりお説教は難しいと思いましたね。
40分というのが、だいたいこういうお彼岸などのお説教の持ち時間なんですが、40分初体験は結構次元が変わると言いますか。
30分越えたところで、もう一回ぐいっと聞いてもらえるかどうか、そこが結構課題だと感じました。
やはり目の前の方々との相互作用と言いますか、「いきもの」だなぁと今日は強く感じ、面白いなと思うと同時に、怖いなと思いました。緻密な計画を立てつつ、本番でそれを全部捨てちゃうくらいの思い切りって、必要だと思いましたね。
計画なんてこっちの勝手な独りよがりですから。聴衆の方々がどういう反応するか、が全てですから。
伝えたいことは同じ。ただしその伝え方は、そのときどきで変えていかなければならないなぁと、そんなことを考えておりました。

向いてる、とか、向いてないとかは、結構分からない話で、向いてるからダメなこともありますし、向いてないからいいこともあります。
とりあえず、この年で新しいことに挑戦できるということだけでも、随分楽しいなと、そんな気持ちでいました。

とはいえ、こんな新米にお説教の場を与えてくださった来迎寺様には感謝の一言。

最初って、勇気が要りますよ。

話す方じゃないですよ。話させる方ですよ。

他に実績のある方は星の数ほどいるのに、わざわざ新米に任せてくださる。
誰かのところの様子を見て試してみるのが一番賢いやり方のはず。

そこを男気でいっちょ試してみるか!って、そこで踏み出す人は、いそうでいません。
口では「今度頼むわ」と言っても、実際に行動に移すとなると話は別です。

そういう意味では、これでアイツはもうアカンわ、とたとえ思われたとしても、試して頂いたことだけでも有り難い。
チャンスをもらって、生かすかどうかは、自分次第。

でもその「自分次第」のところまでいけないことのほうが、多いです。

自分自身の力を試せる場を与えられる、そのこと自体の幸せって、見失いがちですけど、ものすごく、忘れてはダメだと思います。

今回のお説教の成果は、ズバリそのことがよくわかったことですね。

40そこらの若造のお説教を、親より年上の皆様に聞いて頂けたこと、まことに過分な幸せでした。
忘れられない一日となりました。ありがとうございました。