慈眼寺 副住職ブログ

「分断」と「殺菌」の日本社会

本日ふと目にした記事が、普段自分がぼやーっと考えていたことをわりとくっきりさせてくれた気がしています。

「産まない生き方」論争に感じた違和感 アフロ記者が考える「自立」

この「論争」の内容自体に踏み込む気はありません。
私が気になったのは、「分断をつなぎ合わせるのがマスコミの役割」という部分です。

今やネットでいとも簡単に膨大な情報が手に入る。
しかしそれによって我々は近づくどころかどんどん遠ざかって、「分断」されていっている。

正直言って他人の不倫など、当事者以外にはどうでもいいこと。なのに勝手に「自分が奥さんの立場なら・・・」なんて、都合のいい時だけ感情移入して、誰かを血祭りにあげる。他人のラインの内容を盗み見るという明白な犯罪行為には一切何も言わず。

他人の経歴詐称をとことん叩く。それまで何にも疑問を抱かずに「知的なコメント」に酔っていたくせに。

知事の無駄遣いだって直接お金を盗まれたわけじゃないんですよね。13兆円の予算規模の無駄遣いがどうなっているかをもっともっと、それこそ「精査」すべきなのに、週刊誌が見つけてきたせこいネコババをとことん叩く。そもそも誰がその「セコい」人を選んだのか。2回連続でお金に汚い人を選んだのは誰か。それによって選挙費用は130億円かかることになっているといいます。本来は50億で済むそうです。いくらセコい知事でも80億円も使えません。もうそれはセコくない話です。

叩いていいと決まったら、嬉々として相手をとことん追い詰める。縁もゆかりも恨みもない相手を。

「バラバの方を!」と熱狂して血を求めた群衆のように。

ただの暇つぶしのために。最高の娯楽です。他人の不道徳をなじるのは最高の娯楽のようです。

ですが、私がここで何度も言っているように、他人の不道徳を非難する行為、それ自体は、なんら道徳的ではありません。

単純化してレッテル貼りをして、「敵」を見つけて、「道徳」の顔をして人を追い詰める。ひどく単純化して、あとは情報で肉付け。さきに態度を決めてから理由を探す。

この「単純化」という行為が結局こうした問題の根源にある気がします。

保育園に落ちても誰も死ぬ必要はない。
なのにそこで「しね」と叫ぶ空気感。
全か無か。敵か味方か。

殺菌作用を謡うCMが多いです。

「汚いもの」をすっきり「消してしまう」ことの快感。

いつしか我々日本人は見たこともない微細な「雑菌」を「しね」の一言ですべて「殺菌・除菌」する快感に、もはやどっぷり漬かっている気がします。
道徳的な潔癖症であるかのように見えますが、実に都合のいい「イメージ図」を書いて勝手に「殺菌」しているだけ。菌が減ったかどうかは、ただの印象。

そもそも、「殺菌」している自分からは、耐え難い悪臭をふりまいているのに。

この日本の不寛容さは、いったいどこから来たのでしょうか。いったいどこで、我々は道を間違えたのか。

誰もが幸せでない社会。

しかし我々は後戻りはできない。
「3丁目の夕日」のような世界は、振り返るから美しく見える。

当時は当時でやはり薄汚い「道徳」が根強くはびこる社会でした。

ただ現代の、あっという間に拡大し、増殖していく「悪意」や「善意」。そしてそれに反比例して広がる「分断」。
その猛烈ないきおいに、私は気が遠くなってしまいます。

スピードは、おそろしい。

高速通信で繋がる世界に、全く希望を持てないまま、さりとて携帯を手放すこともできず、インターネットでブログを書く、副住職であります。