慈眼寺 副住職ブログ

おろかさ

仏教の目指す最終目標はもちろん解脱なのですが、解脱とはすなわち三毒を消し去ることです。
三毒とは、貪・瞋・痴。

貪とは貪欲。欲に際限がないこと。
瞋とは瞋恚。怒りに我を忘れること。
痴とは愚痴。真理について無知であること。

この解釈は面白いですね。世の中の苦しみの原因を、欲と怒りと愚かさの三つに収斂させるというのは、非常にユニークです。

さらに言えば、この三つも、もとはと言えば最後の痴から出てくるという解釈もあります。これはこれで面白い。でも、そういうことになるだろうなと思いますね。要は、縁起説=あらゆるものの相対性=空を理解していれば、おのずと欲も怒りも出てこないわけですから。シンプルではあります。

人が物を盗むのは、「自分のもの」と「他人のもの」、つまりは「自他」の区別にとらわれているあまり、少しでも「自分のもの」を増やそうという愚かな振る舞いです。そういう意味では、バリバリ働いて高収入を得ることも、泥棒をすることも大局的には同列に愚かで無意味ということになります。まぁ、一緒にされたら困りますけれど(笑)

怒りも同様です。自分と他者の区別など、本質的ではない、とこだわりを捨てれば、プライドもメンツも気になりません。こだわりを捨てられず、怒り、恨み、妬むのは愚かだから。

やはり愚かさというのは、仏教においては「原罪」と言っていい代物ということになります。そのあたり、キリスト教では「知恵の実」を食べたことが原罪ですので、その意味では対極の考え方とも言えるかもしれません。とはいえ、知恵の実を食べたこと自体ではなく、「原罪」とは「神に背いたこと」ですので、「真理について無知であること」=愚かさと同じとも言えるかもしれません。

ちなみにだから私は仏教がすごいとかキリスト教がダメとか、そういうことは一切申しません。そういうことをおっしゃる人は本当に愚かだなと思います。えらい方でもよくそんなことをおっしゃっていますけれど。どの山を登られても、太陽は一つです。自分の見たい角度から見られたらよろしいかと思います。事実、若いころはキリスト教の本ばかり読んでいました。

しかし本当に愚かな方というのはおられます。ものを知らないことが哀れなのではありません。「自分のことを知らないこと」が哀れなのです。愚痴なのです。

先日、夜中に電話をかけてきて、「○○さんが病気ってホント?どんな病気?」とたずねてこられた方がいました。名誉のために言っておきますが、当寺の檀信徒の方でもなければ、信者さまの方でもありません。

ただ、その方で思い出すことがあります。以前にも似たことをなさいました。

母が死んだ朝。
なきがらが家に帰ってきて親しい人々で悲しんでおりますと、そのご夫婦がこられました。

開口一番、「病気?なんの病気?」と聞かれました。

「がんです」

と言うと、後ろにいた彼の奥さんに

「がんやってー!」

と大きな声でご報告されました。

そのときのあの方の顔はおそらく一生忘れないでしょう。

あれは人の不幸を集めて楽しむ人間の顔。三毒に焼かれるこの現世のことを「火宅」と言いますが、まさに燃え盛る貪・瞋・痴の三毒が凝り固まって一つの「愚かさ」に収斂している姿がそこにありました。

思わず、「帰ってください」と言いたいのを必死で堪えて、お焼香をしていただきました。母のなきがらのまえで醜態をさらしたくはなかったので。
そのときに気づき、のちにそのご夫婦の奥様が「あんたのお母さんとは私が一番仲良しやってん!」などとおっしゃられる度に、心新たに感じることがあります。

それは、「この人たちに怒ってしまっては、この人たちと同じレベルに堕ちてしまう」ということです。

愚かな人に怒ってしまうのは愚かな人。彼らの愚痴から出た瞋恚の炎に包まれて、自分たちも焼かれてしまう。

人の不幸を見てほくそ笑み、「ああよかった自分は違う」と安心して、自分が何かを得た気になって愚かさで体をパンパンに膨らませているあの醜い姿は、そのまま自分たちの姿。誰でも妬む。誰でも盗む。誰でも怒る。誰でも殺す。自分だけはそうならないようにと思っても、どうしようもない。必ずああなってしまう。

だから、手を合わせるしかない。

キリスト教だろうと、イスラームであろうと、仏教であろうと、求めるのは「普遍的な真理」です。普遍的というのは、「いつでもどこでも誰にでも」ということ。自分だけが例外だという宗教は普遍性を持ち得ない。シンプルなことです。

みんなが愚かだから、愚かさと向き合うしかない。向き合っても、どうしようもない。愚かだから。

だから、祈る。

ただただ、祈る。

嘲笑った相手に祈る。盗んだ相手に祈る。殺した相手に祈る。

むつかしい。血を吐くように難しい。

ですが、どんな人間でも、人類は弔ってきたわけです。祈ってきたわけです。人間だから祈ってきたわけです。それが普遍的ということです。

「愚かさと向き合う」という、血を吐いて、その血の中でのたうちまわるような行為。それが宗教なのではないかなと、思っています。