慈眼寺 副住職ブログ

ニコラウス・クザーヌス 「知ある無知について」①

中世を見直そう!という個人的ムーヴメントに従い、クザーヌスを読んでいます。
なんでまた中世の古臭い神学者を、なんてお思いかもしれませんが、大変興味深い人です。クザーヌスにはソクラテスをはじめとする古代哲学者の発想も、当然のことながらアウグスティヌスをはじめとする神学者の発想もしっかりと包摂しながら、同時にルネサンスの発想を先取りした部分があり、「暗黒の中世」という古くからのイメージを覆す、ミッシングリンクのような存在だと思います。

本当は岩崎武雄訳で読みたかったのですが、岩崎訳が中古で3200円もするので、ついつい平凡社ライブラリーで買ってしまいました。コレ、後悔するパターン。

クザーヌスと言えば「知ある無知」(学識ある無知)概念と「反対の一致」概念です。なぜこのあたりに引っかかるかというのは、お恥ずかしいので想像にお任せして、ときどきクザーヌスを読みながら備忘録がわりにココでつらつらと引用など。

「それゆえ、われわれの持っている欲望、物事を知ろうとする欲望が無意味でないとすれば、我々は自分自身の無知を知ろうと望んでいることになる。そして、このような状態に完全に到達できたならば、我々は学識ある無知に到達したのである。なぜなら、もっと も探究心の旺盛な人間にとっても、自己自身に内在する無知そのものにおいて最も学識ある者になるということが、学識上最も完全だからである。自らを無知な る者として知ることが篤ければ篤いほど、人はいよいよ学識ある者になるであろう」(山田桂三訳p.18)

「したがってまた、有限な知性は類似(かたどり)というやり方によっては事物の真理に厳密には到達できない。なぜなら真理は一種の不可分性を持っていて、心理の度合いがより大きい、より少ないということはありえないのであって、真理自体でないいかなるものによっても、真理自体を厳密に測ることは不可能だからである。・・・知性と真理の關係は、あたかも多角形と円の関係と同様であって、たとえば内接多角形は、その角の数が多くなるにつれてますます円に類似するが、それにもかかわらず角を限りなく増したところで、円そのものにならない限り、決して円と等しくなることはないのである。
 したがって、明らかにわれわれは、真なるものについて、あるがままの姿を厳密に捉ええないということを知っているほかは何も知らないのである。真理はそのあるがままの姿を厳密に捉ええないということを知っているほか何も知らないのである。真理はあるがままのものより大きくも小さくもありえないという絶対的必然性としての意味を持つのに対して、われわれの知性は可能性(蓋然性)としての意味しか持たぬからである。それゆえ、存在するものの真理、言い換えれば事物の本質、その純粋性においては到達しえないものであって、すべての哲学者によって探求されたが、誰もあるがままの姿を見出すことができなかった。かくしてわれわれは、この無知において教えられること(学識を持つこと)が深ければ深いほど、ますます真理そのものに近づくことになるのである」

「しかもこれらのことからして、われわれの結論することは、厳密な真理は、われわれの無知なる闇の中のうちにあっては比量的に捉えられない仕方で輝いているということである。これこそ、我々の求めてやまなかった、かの「学識ある無知」である。しかも、ひとりこの無知によってのみわれわれは、無限の善性を具有し、最大かつ一にして三なる神に、無知なる学識の個々の段梯に応じて到達しうると述べたのである。それゆえに、神がわれわれに比量的に捉えられぬ者として自らを示されたということについて、我々は全力を挙げていつまでも神を讃えるであろう。」

ソクラテスの「無知の知」とクザーヌスとの違いは、おそらくはソクラテスの「無知」が真理へのスタートであるのに対し、クザーヌスにおいては「無知」こそがゴールである点だと思います。神のみが真理を捉え、有限なる人間は、それを絶対に捉えられない、という仕方においてのみ、捉えられる。人間の非全能性の徹底した理解のみが、理解を超えたかたちでの無限な知を直観的に把握する、そういうニュアンスかと思います。もうちょっと勉強します。