慈眼寺 副住職ブログ

止まっていた時が動き出しました。

本日好天の中、奈良市都祁村来迎寺町の来迎寺にて、本堂改修並びに、善導大師坐像の修造記念がめでたく達成されまして、落慶法要が行われました。

慈眼寺の住職である私の父が、来迎寺の前住職さまから、この歴史ある涅槃山来迎寺の法灯を受け継がせて頂き、第50世の晋山式をさせて頂いたのが平成19年のことでした。当時の本堂は屋根がところどころ穴が空き、雨漏りがひどく、畳は腐ってボロボロ。ロウソクや仏具は鼠にかじられ、庫裏(お坊さんの住居のことです)も荒れ果てておりました。今でもインターネット上で「都祁 来迎寺」と検索すれば荒れ果てた当時の様子を嘆く記事が簡単に見つけられます。

来迎寺は時が止まった寺でした。

なにげなく手に取った三界萬霊の位牌。あまりに傷んでいるので、いつのものかと裏を見ますと、「天文三年」の文字。1534年の仏具を私は運んでいたわけです。多田源氏の菩提寺であり、一帯の念仏信仰の中心地でもあった歴史ある寺ですが、近代に寺勢を失い、農地改革で更なる打撃を受け、あとは野に還るばかりとなっていました。13軒しかない檀信徒は、しかし「わが寺」という意識篤く、毎年9月14日の「善導忌」には村総出で草刈り、掃除、飾りつけを行い、ここで善導大師様を中心に寄り添い、お念仏の信仰を守られていました。

以前にも本堂再建への勧進は何度も試みられては頓挫し、私たちが来た時には、どこから手をつけたらいいのかも分からない、まさに暗中模索の状態でし た。そんな中、来迎寺の再建に希望をもって我が家の旗を振ったのが、今は亡き私の母です。以前から父が善導忌のお説教に来るたびに、この都祁村の清澄な空気を気に 入っていた母は、兼務に尻込みする父を叱咤激励し、「まずは庫裏の再建を」と率先して建築計画を進め、自らは境内に小さな丸太小屋を建て、物入れ兼、その 気になれば泊り込める前線基地としました。「深山の楢」と名付けられたその小屋が、来迎寺再建の小さな小さな一歩でした。来迎寺檀信徒都祁建設さまとの幾 度もの協議を経て、ようやく完成した来迎寺の庫裏。しかし、それを待ち望んだ母は病に倒れ、一度も庫裏を見ることすらなく、この世を去りました。遺された我々、住職である父、副住職である私にとって、来迎寺再建は母の遺志になりました。

しかしここからが大変でした。文化財指定のない来迎寺の本堂は、自費で再建しなければなりません。いったい総額いくらになるのかも分からない莫大な改修費用を、自治体からの援助なく行うのは不可能でした。当時、この寺の行く末を心配してくださった数々のブログには、当時の絶望的な様子が伺える記事があります。

http://naranokoto.seesaa.net/article/128101973.html
http://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/f958e9f658c7cb75ea6bb85bc62cee48

せめてご本尊の善導大師さまだけでも風雨をしのげるようにと、収蔵庫をつくることだけで妥協しようという案がほぼ決まりかけました。そんな中平成22年に本堂が県の文化財指定を受けることが決まり、「善導忌を再建した本道で」という檀家さまの願いがかなう大きな一歩が踏み出されました。その後も大小様々な問題がありましたが、何より檀信徒さまの熱烈なご努力、さらに、遠く岐阜や香川から、来迎寺の善導大師様を信仰なさっておられる善導講の皆々様からの大きな援助を頂きまして、本日無事、落慶法要を迎えることができました。

来迎寺13 来迎寺6

来迎寺4 来迎寺7

檀信徒並びにご協力頂いた近隣の皆様、並びに善導講の皆様の誇らしげな顔、顔、顔。

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石段も檀信徒都祁建設様の手によってすっかり美しく改修されました。奈良テレビ放送さまには式事次第を何から何まで整えて頂きました。

来迎寺2  

奈良西山門中の寺院様方もご随喜くださいました。ありがとうございました。

       来迎寺14

本尊善導大師さまも無事修復を終えられました。

 

去年亡くなられた檀家総代の山本のじさまが生きてたらどんなに喜んでくれただろうなぁ。うちのお母さんが生きてたら、なんて言っただろうなぁ。

善導大師さまを中心とする数え切れない縁が、子々孫々続く経糸(たていと)と、日本中に広がる緯糸(よこいと)によってよりあわされて、本日見事に結実しました。

 

時が止まった寺の、時が動き出しました。