慈眼寺 副住職ブログ

ディベート

先日、勤務先の生徒さんにディベートについての質問を受けました。
実は、現在は一切そうしたことに関わってはいないのですが、以前某校で何も分からないまま、ディベート部の顧問をさせていただいたことがあります。そのときの経験を話したところ、英会話部?の先生から英語ディベートの際にアドバイスをいくつかしてやってくれと頼まれることが時折あります。

ディベートと英語ディベートはまた少し違う部分もありますし、私は英語でディベートなんてとてもできないですが、英語のほうはとても達者な生徒さんたちなので、心配は要りません。むしろディベートの部分、そしてその論題になる社会問題のついての理解を深めるお手伝いなら、と、微力ながら時折お手伝いしています。

私は哲学科に長くいたものの、別に論理的な人間ではありませんし、論理学の授業はすごく苦手でした。あんなの数学です。様相論理なんてもう何が何だか。なぜ文学部に来てあんな数学を・・・と情けない弱音を吐いていました。
そして競技ディベートなんてやったこともありませんし、顧問になったときは暗中模索でした。門外漢から見ると、重箱の隅をつつくような、足の引っ張り合いばかりやっているように見えたものです。僕はついつい論理の鮮やかさみたいなものにこだわり、背理法的なカウンターばかり狙わせたがっていました。実際には立論段階での地味なデータ収集がすごく重要で、「納得させる」というよりは、「積み上げる」感覚が大事だと思いました。

ああだこうだの理想論や、うまい言い回しで感嘆させる必要はないのです。そんなことは枝葉の技術です。

「A案を採用するとどんなメリットが、どれだけの範囲で、どれほどの人間に影響があるのか。その影響の起こる確実性はどのくらいか。」

そうした地道なポイント争いをしないと、この競技では勝つことができない。そのことに気づいた頃にはディベート部の仕事を離れ、本格的にバド部の指導をするようになり、「ディベート?ナニソレ?美味しいの?」みたいな状態になっていました。

久しぶりに関わると本当に頭を使います。パンクしそうです。若い頃にやっていれば「ああ、またソレね」くらいのベタなテーマで、攻め手も守り手も先の先まで読めてしまうものなのでしょうが、競技者として参加したことはないものですから、なかなかどういう練習が必要なのかもわかりません。なんというか、バドミントンでいうノックとかパターン練みたいなものの引き出しがない。さらに生徒さん自身にとっては、論題になるテーマは普段真面目に考えたこともないというようなテーマです。私も考えてはいたものの、正確なデータや、相手を説得するような論拠など、普段特別意識してはいません。さんざん頭をつかって「ああ言えばこう言われるから、こっちの方向で・・・いや待てよ。敢えてこっちで噛み付かせて、噛み付いてきたらこう返して・・・」とか「うーん、こっちのこの論拠は弱いな。攻められたら泥試合の平行線に持ち込んで、印象だけ若干勝ち取るくらいのせこい勝負にしようか」などと考えるのがせいぜいです。

さらに難しいところは、自分がどれだけ考えても、やるのは本人だということ。実際にディベートが始まれば、どんな完全な戦略も、本人のものにできていなければ何の意味もない。「他人の代わりに考えてあげることはできない」ということは非常に重要です。それよりはむしろ散々生徒さんにアイディアを出させて、片っ端からそれを潰していくほうが、よほど本人のためになります。そう考えると、「理解のある大人」なんかより「カミナリおじさん」みたいな嫌われ役の方が人生で大事な存在だと思いますね。

バドミントンでもディベートでも同じですが、「いい生徒」では勝てません。「お。そう来たか。」とこっちが驚くような、大人が本気で戦わねばならないような、勝てなくても最低でも気持ちでは対等の土俵に上がってくる人間でないと、強くはなりません。そういう意味ではかわいげのある、なんでもハイハイとうなずくような「素直な優等生」は、隣人としてはよくても、戦いの場では活躍できません。かといってただただ勝つことにこだわる人間もよくない。

結局、自分にとって一番いいことは何か、という方向性がハッキリしている子が、何をやっても伸びる気がします。

何のために勝つのか。目の前の戦いに勝つだけでなく、長い人生で自分にとってプラスになる方向はどっちなのか。一つの試合、一つの大会ではなく、競技そのものを愛し、その競技での自分を高めるために何をすればいいのか。それが直感的に分かっている人が、やはり強くなる気がします。

いわゆる普通の意味での利己的ではなく、何が自分を高めるのか、という大きな「己」にこだわる人。自分だけが得をしたいという小さな「己」を追い求めるのではなく、他者を高めることで自分を高めることになる、そういうWIN&WIN、私の優秀な教え子の言葉を借りると「ハッピー&ハッピー」な磁場を広げていける人。そういう人こそが、困難な状況を楽しく乗り越えて、笑いながら成長していける気がしています。

先日集まったディベートのメンバーはどの子もそれぞれ独特の個性と才能を持ち、中には大人顔負けの思考力や突破力を持った生徒さんもいました。基本的には高校生の段階では、ほとんどの人が、持てる才能を表に出すのが苦手だったり、自分の中でシミュレーションをして一人でシャドーボクシングのような議論を行うことに慣れていないものです。それさえできればあとは自分のやり方で、私なんて置いてけぼりで戦えます。こんなおっさんなどよりよほど回転が速い。

踏み台、補助ロケット、噛ませ犬。なんでもいいです。私を踏んづけて高く高く舞い上がっていく若い才能を見るのは、運動でも勉強でも、眩しくて素敵です。まぁ、ちょっと悔しいのですが、コレがこの仕事の醍醐味かな、なんて思ったりもしています。