慈眼寺 副住職ブログ

「天気の話」の深い愛

日光

若い頃、天気の話題をする大人が嫌でした。

暑いだの、寒いだの。「今年の夏は暑い」とか、「お水取りまでは寒い」だの、毎年毎年同じような、そして無内容なことを・・・なんて思っていました。
でも今、40歳を目前に控え、天気の話をさかんにしています。

だって、誰も傷つけないですもんねぇ。
天気の話で傷つくのって、気象庁の人と気象予報士だけですよね。で、身近に滅多にいないですし。

「元気?」とかよく聞きますけど、元気な人に元気?って聞くのは無意味ですし、元気じゃない人に元気?って聞くのは残酷だし、よくよく考えたらとんでもない会 話です。病気の人に「大丈夫?」と聞くのはものすごく残酷です。大丈夫じゃないから寝ているのです。大丈夫な人が、大丈夫じゃない人に、「大丈夫?」と聞くのです。「大丈夫じゃないよ」とは言えません。「大丈夫」としか言いようがない。大丈夫じゃないのに。こんなにひどいことはない。

日本人は本当に詮索が大好きです。

息子さん、中学どこいってるの?受験じゃないの?どこ受けるの?受かった?まぁ!賢い!そろそろ何年生?まぁ!受験やないの!大学どこ言ってるの?どこに就職しはったん?結婚は?子供は?まだなの?結婚して何年?子供さんもうそろそろ受験?・・・このループです。

どの家庭にも色々な事情もあるはずなのに。そして自分のことは答えずに、他人のことばかり詮索する。詮索することで自分の家庭への詮索を避ける。自分より困っている人を探して「ホッ」とする。地獄です。地獄はあの世にはない。

かといって、道でばったり出会って、「アレテーとは何か?」とか訪ねたりしたら、気がつけば毒杯を仰ぐはめになっていることでしょう。本質的な話、専門的な 話、つまり意味のある話は、意味があるからこそ、相手を選びます。誰かにとって意味があるからといって、他の人に意味があるとは限らない。

そう思うと、「天気」とは、なんと懐が深いのか。

すべてを受け入れる。

すべてを包みこむ。

誰も傷つけない。

誰にとっても意味がある。

まさしく「天」の「気」です。
私は何も分かっていなかった。
大人はみんな、限りない優しさと、深い配慮と、人生への愛情を込めて、

「いやぁ~、今日はいい天気ですなぁ!」

と、おっしゃっていたわけです。

 

今日もいい天気でしたね。明日も晴れるといいですね。でもたまには雨も降らないとね。

 

そんなおばさんの道端の会話に、妙に手を合わせたくなる、今日この頃。