街の「消費」
昨日は久しぶりに大阪に出かけたのですが、随分変わっていてびっくりしました。
私は大阪の高校に通って、大阪の大学に進み、大阪で働いていた時期も長かったので、大阪の街にはいろいろ思い入れもあります。
鹿児島に移った友達が大阪に帰るといつも言うのが、「鹿児島にだって買い物に行くところはあるけど、全然代わり映えはしない。でも大阪は来るたびにどこか変わっている」ということです。大阪のような地方都市ですらそうなのですから、東京なんてのはそれ以上の規模とサイクルで変わっていく都市なのだろうなと思います。
しかしこの人口減の時代に、大阪にデパートや専門店や何やら、「お買い物」をするビルの多いこと。
キタの街にも阪急・阪神・大丸・阪急メンズ・ディアモール・イーマ・グラントフロント・ルクア・元伊勢丹に他にも大きな店がたくさん。本当にこんなに必要なのかとびっくりするほどお店があります。高校の文化祭って、お客さんは来ても生徒とそのご家族くらいで、外部禁止のところが多いので、売ってる人がお客さんとか、売ってる人の方が多いなんてこともありますが、今、平日の梅田なんかはそういう状態かもしれません。
梅田が供給過剰の状態で、難波、天王寺などにもデパートやショッピングモールがあり、あらたに大きなビルを建てたりしてますから、大阪府全体の供給過剰ぶりはちょっとシャレになってないような気がします。本当にそんなに「買い物」をしなくてはならないのか、バブル時代はお金をつかうこと自体に意義が見出された時代ですが、長いデフレで日本人はだいぶ「つかわない」ことを知り、「そもそもつかわなくてもいいんじゃないの?」ということにも気づき始めている気がします。お金をつかう前提でどんどん建物を建て、「日本初上陸!」「大阪初出店」に群がり、やがて飽きて、新たな「初」に群がる。まずはでかい箱を作って、そこの中身を変えて、やがて古くなったら建て替える。売るものも毎年1年しかもたないような服を「今年の流行」などと2年前に決めた流行を「流行だから」という理由で「流行させる」。
こういう「消費」=「美徳」という考え方自体の虚しさについて、今だからより感じることができるように思います。
実は大阪だけでなく、奈良のような田舎でさえ、宅地造成のために山を潰し、そこが核家族で高齢化し、別の山を潰す、ということが延々行われています。電気製品と同じ。「直すより、買い換えたほうが早い。安い。」という考え方。
なんというか、「消費できないもの」こそ価値がある、ということに、日本人はもう気づいている気がするのですが。