慈眼寺 副住職ブログ

全国のどんくさい男の子へ

野球部

えー写真は私でもなんでもありません。何かのCMで出てた「一度もスタメンに選ばれずに小学校最後の試合を終えた男の子」役の少年の顔です。実に切ない、いい顔してますね。

俺の暗黒時代

突然ですが、私の小学校時代運動のできなさはかなりのものでした。
小学校のときかけっこで一番をとったことなど皆無。当時は平等を追求しすぎて別の意味で偏ってしまった教育まっさかりの時代ですから、かけっこは足の速さをある程度揃えていい勝負になるように操作して走らせていました。私の組は私以外全員肥満児。そこにひょろっとした僕が入り、それでも3位くらい。つまり体重別なら学校で1、2を争う鈍足少年でした。ドッジボールでは逃げ回って最後にやられるだけの人。一番辛かったのは毎年の運動会。足の速い少年は花形で、裸足でビュン!と走ります。私はと言えば、毎年おじいちゃんとおばあちゃんが応援にきてくれるのですが、ときどきこの時期に新しい靴を買ってくれます。真っ白な運動靴を貰って、大好きなおじいちゃん、おばあちゃん応援に来てくれるのに、いつも太っちょに囲まれて3位や4位でゴール。あまりのプレッシャーに運動会の2週間前から実は隠れて特訓していたのですが、結果は毎年変わりませんでした。小学校5年のときで、50m走11秒ですから、ちょっと何をしてたらそんなに時間がかかるのかというタイムです。ボルトが往復して帰ってきて、まだ時間が余る。

光も差さない深海の底―「バスケ部時代」

そんな僕が何を思ったか、本当に何を思ったのか、小学校5年でバスケ部(!)に入るのですが、これがまた悲惨。想像つくやろ!と今なら自分で思うのですが、本当に悲惨。「まともにできるようになったらバッシュ(バスケットシューズ)を買う」と言って、親が買ってやろうというシューズを拒否し続けた結果、卒業まで体育館シューズで通すことになりました。繰り返しますが、悲惨です。そして小6最後の試合。親が応援に駆けつけた試合で、先生がそれを見つけ、「お、お前んとこ、お母さん来てはるのか。おまえ、最後だし、出したるから、ガンバレ!」と言ってもらえました。私は、子供のくせに「ええですって。そんなに気をつかってもらわなくても・・・」などと苦笑いして遠慮しつつ、子供だから期待していました。
そして、試合が始まりました。試合は均衡して、白熱した展開に。先生は試合にのめり込んで、体育館シューズのどんくさい男の子のことなどすっかり忘れてしまいました。最後の試合の最後の笛が鳴り、私の暗黒バスケ部時代が何事もなく終わりました。帰りの締めの時に、私はこのままやり過ごしてひっそり帰ろうと思っていましたが、チームメートが気づいてしまいました。

「コイツ、出てへんですやん!先生!コイツ、出てませんよ!試合!」←今世紀最大のしなくていい大発見。

先生はハッと気づき、バツが悪くなり、「おう、スマンかった!スマンかった!つい熱くなってもうたな。」と私をガシガシ触ってフォローしますが、発見されたこと自体が恥ずかしくて、私は、

「ええですって!ええですって!僕でたら負けてまいますやん!」

実に実に卑屈な笑みを浮かべてやり過ごしていましたが、恥ずかしさと情けなさに、目の前の景色がすごく滲んでしまい、まわりのチームメートから、「泣いとるやん!コイツ!泣いとる!」という声が聞こえたけど、何も見えないしもうワケが分かりませんでした。

暗黒です。小学校で運動ができない男子に、まともな人権などありません。

一瞬の光明が差した・・・気がしただけだった。

中学でバド部に入ってから結構足速くなり(当社比)、人並みになりましたが、試合は連戦連敗。新人戦では2-15で負けるというとんでもない負け方をしました。そんな私が驚くべきことにキャプテンになりました。しかしそれには、一番強かった子が真面目すぎて練習がきつくなるのをみんなが嫌がったというダメな組織の典型のような理由がありました。そしてバドは私と同じくうまくないけれど、政治力だけは異常にある「たけお」という部員が裏で部員を誘導した結果、私が選ばれました。キャプテンになろうが、試合は連戦連敗。最後の試合の直前まで一度も勝てずにいましたが、中3で突如やってきた新任の上手な先生のおかげで勝手に部員の意識が上がり、少しだけ勝てました。そのまま涙すら流せず、なんとなく引退。情けないですよ。3年頑張って、別にやりきった感も、悔しさも何もないって。私の時間が空っぽだったっていうことですから。一番情けないのは負けることではないんです。負けても全然平気なことなんですよね。
高校にはバド部はなく、帰宅部。(それで高校の部活のコーチって!)でもちょっとだけ上手になれた気がしたバドを捨てきれず、中学の真面目すぎてキャプテンになれなかった友達を頼って近所の高校生を教えているクラブに連れて行ってもらいました。ですが、部活で物足りずにさらに練習に来てるような子達についていけるはずもなく、そこの指導員の方に、

「え?お前、ホンマに中学でやってたんか?」

という言葉を投げかけられ、一応まがいなりにもキャプテンだったという自分のプライドも粉々どころかサラサラになってしまい二度とラケットを握らないと誓いました。

諦めの悪さだけは三人前

ところが、大学に行って体育館に行くと、シューズの「キュッキュ!」という音エアーサロンパスのケミカル臭があまりに懐かしい。上手い子はあまりおらず、初心者ばかりのサークルだったので、もう一度だけ、と思って始めてしまいました。そこからはもう、練習漬けの毎日です。勉強なんて全くせず、ひどいときは朝の9時から夜の5時までひたすら打ってました。鶏口牛後と言いますが、初心者に混ざることにもさしたる抵抗もあるはずもなく。もとより積み重ねなんてゼロ。全部一からやりました。さらに強くなりたいと、一人で社会人にも行きました。当然社会人クラブでも通用せずに同年代の男の子に「女と組んだほうがマシ」「サーブしたら、すぐコートから出てくれ」などと言われるなど、散々な目に遭いましたが、なぜか諦めきれずに続けてしまいました。

1人が褒めてくれたらそれでよかった

そんな日々が続いて30歳を過ぎた頃、ある体育館で中学の顧問、あの、めちゃくちゃ上手な顧問の先生に会いました。先生は全日本教員でも勝ち進み、あと少しで全日本総合に出れた、という雲の上の人ですが、気がつけばお互い32歳と39歳。同世代みたいになっていました。先生に挨拶に行くと、一応覚えてくれていて、感動しました。一緒にゲームもしてもらいました。先生に会わなくなってから、自分がゼロから積み重ねたものを全てぶつけました。試合後、先生はおもむろに、

「お前!上手くなったやないか!ビックリしたわ!!よう練習したんやな!」

と言ってくれました。そのあと、体育館のトイレで、バドミントンをしてはじめて嬉し泣きしました。ずっと続けてよかったと思いました。13歳から始め、高校で3年休んで32歳、16年が経っていました。

どんくさくっても、ええんちゃうかな

今でこそマラソンにチャレンジして完走できたり、自転車に乗ったり、コーチの真似事をしたりして、大人になってから出会った人には私に運動が苦手なイメージが全然ないそうですが、家族内での私のスポーツ評価はゼロです。実際にダメでしたから。

ところが先日部活で指導した部員に「こうやったらええねん。」と、プレーの話をしたら、

「僕は、先生みたいに運動神経よくないし・・・」

と言われ、衝撃的でした。
今までのところ、昔の僕より運動神経の悪い部員には出会ったことがないからです。

世の中には上手なコーチは本当にたくさんいます。みなさん本当に強いです。立派な戦績もお持ちです。一生かないません。かなわないことに自信があります。えっへん。

だから、とりあえず、自分ができることはただ一つ。絶対に誰一人見捨てない。どんくさくても見捨てない。そいつが諦めない限り、絶対に俺も諦めない。
それは、自分を見捨てたくないからです。たとえバドミントンがダメでも、何か熱中できるものを見つけてその子が打ち込める日が来る。
強い子は最初から強いんです。私がコーチ(笑)をやっていて、よかったなと思うのは、いつも負けた子の姿を見たときです。

コートに倒れて立ち上がれないメガネくんや、試合中に何度も私の目を見てくうなずいてくる女の子、タオルをかぶって階段の下でずっと嗚咽をもらす女の子の姿を見ていると、この子たちの一敗を遅くすることができなかった自分の努力不足を悔やみながら、でも、こんなにも一生懸命な姿を間近で見ることができて、本当によかったと思います。
私はいつも、あの夕焼けの中、来週の運動会に向けて真っ白な靴で走り込んでいる自分をずっと眺めていたくて、この仕事をしています。

それからあとひとつ、どうしても嫌なことからは、逃げたらええねん。逃げたらええねんで。「俺は逃げた」ってことからだけは逃げられへんけど、逃げた先にもっといいもんがあるかもしれへん。逃げた場所にまた戻ってくるかもしれへん。なんでこんなしょうもないもんから逃げたんやろって思えるかもしれへん。そんなん、誰もわからん。