慈眼寺 副住職ブログ

今年も下世話な記事が出る時期になりました。

さて、今年もこれ以上ないくらい下世話な記事が出回る時期になりました。そうです。サンデー毎日の「東大・京大合格者ランキング」です。

私、正直ちょっと毎年中身は見たいんですが、アレを買うのは、ヌード雑誌を買うより抵抗がありまして、なかなか買えません。下世話過ぎてちょっと。しかし最近は1日2日待てばネットでより詳しい情報が出たりしますから、よい時代です。で、結局中身に興味があるんだから私もほとほと下世話です。

自分が京大にかすりもしなかったのになぜそんなものを見るのか?進路指導?いえいえ。そんな仕事一切してませんから。
完全に下世話な趣味で見ています。俺って本当に俗物だなぁなんて思いながらいろいろな数値を見ては、ニヤニヤしたり、「えっ!」と驚いたり、「結局大きな変化はないな」と思ったり。なにをするではなく、母校やかつての職場がいまどんな感じなのかとか、昔、職員会議で模試の結果について「○○に差をつけられた!どうなってるんですか?」などと突き上げられてる先生がいたなぁなんて思い出したりしながら、見ています。

こんな下世話な趣味ですが、実際には何の意味もないデータだと思います。そうですね。例えるなら、プロ野球の投手の球速みたいなものですか。スピードガンの数値なんてあくまで目安。140km以下でも抑える投手は抑えるのです。逆に160kmでフォアボール連発という人もいます。

東大や京大など、いわゆる偏差値が高い大学ほど行く価値があるとは思いません。ここまで下世話な話をしていてなんなのですが、本当に、ひとりひとりの人間を見たとき、偏差値で大学を決めるほど愚かなことはないです。

これは、偏差値を上げるよりずっとずっとむつかしいことなのですが、一番重要なのは高校時代に、自分が本当に何をしたいのか、を見定めることだと思うのです。できれば高校時代から「この先生につきたい!」というAKBの「推しメン」ならぬ、「推し教授」を決めて、その先生狙いで大学を受験するのが絶対にいいと思います。これはもう間違いないです。ですが、なかなかそこまで決めきれない。文学をするのか法学をするのか、医学部なのか数学科なのか、やってみないと分からないものです。それに、大学で習う学問とは全く違うレヴェルの内容を高校生で理解するのは大変です。ほとんどの高校生は論文一本さえ読めないです。と、いうより、世の大学生も8割方読めないです。寝てしまいます。将来何になりたいかもコロコロ変わります。そういうわけで、とりあえずなるべく何にでもなれる選択肢を広げる、という大義名分で、なるべく偏差値の高い大学が求められ、そしてその頂点に、その二つの大学があるわけです。(実際には2つとは限らないんですけど、まぁ、象徴的な感じですよね。)

でも、コレっておかしいですよね。最終的には必ずどれか1つを選ぶのに、選択肢の広い道を選ぶって。理屈はわかりますよ。でも「さっさと選べばいいじゃない」という最強の言葉の前には無力です。私は「哲学か心理学」の二つに絞っていましたし、小学生の頃から文学部以外を考えたこともない人間でしたから、別に問題はなかったのですが、奥さんに出会ってそれすら甘かったと気づきました。奥さんはいまだに真顔で、

「なぁ。なんで大学いくの?」

と聞いてきます。コレって結構すごい質問ですよ。僕の大学にいた女の子たちは誰ひとり発することもできなかった質問です。

奥さんは高校の時婦人警官になろう!と決めて先生に言うと、先生は「警察官は社会情勢とか知らんなんあかんねんぞ!お前には無理や!」と、ものすごくストロングスタイルな進路指導をしました。ストロングスタイル過ぎて「アンタこそ社会情勢知らんやろ」とその先生に言いたくなりますが、まぁいいでしょう。その結果、奥さんは少し方向を変え、「看護婦になる!」ということに軌道修正し、看護学校に進みました。いまだに奥さんの目には、大学生は「何の役に立つのか分からない勉強をするフリをして、実際には遊び呆けて調子乗ってる奴ら」としか映りません。そして実際、日本の大学生の9割くらいはそんな感じです。たとえ東大だろうと、京大だろうと、一橋だろうと早慶だろうと、そういう人は相変わらずいるように思います。

奥さんはその後、脳外科、手術室、救急救命など、いかにもドラマになりそうな職場を勤務したのち、「社会情勢」を教える社会科教師と結婚して看護婦を辞めるという数奇な運命を辿ります。

私は大学に10年くらいいましたが、自分も含めて「大学に来る価値のある人間」というのは、ほとんどいなかったように思います。こういう人が身近にいるおかげで、サンデー毎日をこっそりコンビニで恥ずかしそうに立ち読みする自分を客観視することができます。奥さんの言うことは確かに大正解です。

ですがそれでもやはり、大学に行く価値はある。価値がある人間、ない人間など、あらかじめ決められない。

「人は誰でも、学ぶ権利がある」

言葉にするととんでもなく青臭いこの理想論について、長くなりましたのでまた日を改めて書きたいと思います。しかし、絶対大学に行かねばならない!という意見は絶対とりません。せめてKKDRに・・・とか、せめて大阪市大に・・・とか、東大以外は大学じゃない!なんていうなんだか哀れな強迫観念に追い込まれた、情けない志望動機ではなく、燃えるような向学心で、収入は全然増えなくても、どうしても大学に行きたい!そういう人が、何歳になっても行きたくなったら大学に行く、そういう形なら、「人はいつでも大学に行けるのでなければならない。」must goではなく、must be able to goです。

そういう話を、説得力をもって、子供にできるように、意見をまとめておこうと思います。でも行きたくなきゃ、高校だって行かなくていいです。本当にそう思います。

ではまた明日・・・か近々。