慈眼寺 副住職ブログ

奈良を守る結界がきたまちに?

転害門

先日は庶民の大動脈としての一条通の話をしました。昨日お話ししたように、この通りの終点には転害門があります。平重衡の火にも、松永久秀の火にも耐えた東大寺の守り神の門。かつて聖武天皇が東大寺の守り神として八幡神を勧請したときには、八幡神はこの一条通を通って東大寺に入ったとされます。

さらに興味深いことに、慈眼寺がある北小路町のすぐ隣りの町、内侍原町にある神社、八嶋神社(以前お掃除の話を書きました)はこの、転害門と非常に深いゆかりのある神社でもあります。

 「内侍原町は古くから梨子樹数株繁茂していたので梨子原と云われていた。東大寺の鎮守神として宇佐から八幡神を勧請した時、新宮をここに造り神宮をなしたことは「続日本紀」の天平勝宝元年十二月の条に書かれている。その後、春日祭の時、上卿はじめ諸司の使内侍等の宿舎となってから内侍原と書くようになったと「江家次第」の春日祭事に書かれている。現在こうした遺跡はまったく詳かでない。八嶋八幡宮のあるところがその跡と云われている。現在 八嶋八幡宮と呼ばれている神社は、古くは内侍原八幡宮であったようであるが、八幡の幡の字が悪筆で書かれていたので、これを嶋と読み、遂に八嶋となったと「奈良坊目拙解」に古老の話としてのせている。」(奈良町風土記より)

http://naraclub-naraclubpart2.blogspot.jp/2013/12/blog-post_3.html「奈良倶楽部」さんのHPからの抜粋です。)

 つまり、東大寺の守り神として宇佐八幡から八幡神を勧請した際、一旦八幡神のために新宮を建設してそこにまずはお住まいいただいた。それが慈眼寺から200mほど離れた八嶋神社のある場所であった可能性が高いということです。実際慈眼寺のある北小路町は慈眼寺のほかは数軒の家しかありません。あとは全て奈良女子大の建物です。北小路町は町内会も内侍原町と合同になっており、内侍原町慈眼寺と書いても手紙が届きます。

 そしてその内侍原町の八嶋神社のすぐ隣には慈眼寺があり、その慈眼寺もまた、聖武天皇が疫病を鎮めるために祈ったところ、夢に現れた観音の姿を刻んだ仏像を安置した場所なのです。聖武天皇が宇佐より八幡神を勧請した新宮から、東大寺に向かう一条通へのちょうど中間地点に、まさに聖武天皇御感得の観音堂があった。確実な遺構は残っていませんし、現在の「やすらぎの道」は当時はなかったはずなので、おそらく八幡神の通り道は八嶋神社の前の道をそのまま東へ向かってから北上したものと思われます。とはいえ、素人考えで少し歴史を重ね合わせるだけで、一条通と東大寺を中心とした霊的な結界がこの一帯に見えるような気がします。

 ちなみに上で少し触れた平重衡、松永久秀は仏教側から見ると大悪人としてともに有名人です。二人の共通点は「大仏殿を焼き討ちした」とされていることですね。結果的に大仏殿を焼いてしまった、というのが正しいところですが。この二人の足跡はYDMエリアにしっかり残っております。松永久秀の居城にして日本初の天守閣構造をもった城(砦)である多聞城は現在の若草中学です。私の母校です。松永久秀は史実に残る日本初の爆死を遂げた人物としても有名です。平重衡の墓は木津の安福寺というお寺の境内にあります。木津駅からすぐ近くで、そこの住職は私のお友達です。慈眼寺の初午・二の午にも来て手伝っていただいております。

知れば知るほど、歴史というのは重層的でどんどん繋がっていきます。そういう繋がりを知らずに今まで生活していたのは、実にもったいなかったなと思っています。今からでも遅くないので、この濃密な歴史空間を存分に楽しみながら余生を送りたいと思います。長生きできたら「土地の古老」としてみなさんにお話できるよう、今から「ふぉふぉふぉ」と笑う練習をしておきます。