慈眼寺 副住職ブログ

レヴュー『これからの「正義」の話をしよう』 マイケル・サンデル

かつてとある学校の採用試験で、「ハーバード白熱教室のサンデル教授の授業を見てどう思うか?」と聞かれ、TVを見ていなかったので「見ていないので分かりません」と答えた恥ずかしい私の過去を正直に暴露しつつ、この本の紹介に参ります。

 「今こそサンデル」と少し前に原発問題で持ち上げられましたが、「今でもサンデル」(そしてこれからもしばらくはサンデル)だと思います。新奇な理論などは全然もたらしてくれませんが、かつての倫理思想をここまで明確に整理し、鮮やかな思考実験で我々にサーブしてくれる人がかつていたでしょうか。世の中には、難しいことを難しく表現する「センセイ」は山ほどいますが、本当に頭がいい人というのは、難しいことをカンタンにして表現してくれます。残念ながら、世の中にはカンタンなことを難しく表現する人お坊さんに多い)さえたくさんいるというのに、これはすごいことです。

 さいきん「日本は民度が高い」だの、「道徳心が高い」だのいう言葉を目にしますが、実際は全く逆で、日本には道徳がそもそも存在しないと思っています。日本に存在するのは、上手く立ち回ってなるべく得をする「処世術」と、「お上」や「偉い人」の言った通りに喜んで無条件に動く「権威主義」がミックスされた結果、世にも奇妙な行動規範を「道徳」などと呼ぶ思考停止の伝統だけ、だと思います。

 道徳の教科書にはなぜか「ワシントンが正直に行動したら誉められた」という話が載っていました。正直を美徳とする素晴らしい例、だと思うでしょうか?私はそうは思いません。断じて否、です。実はこの偉人の逸話は、存在しないエピソードで、伝記作家のでっち上げなのですが(そもそもワシントンの幼少期にアメリカ大陸に桜は存在しない)、問題はそれが実話か否かではありません。この話が「善い」とされるのは、「正直に行動することが結果的にまわりの信頼を生む」からなのです。え?全然おかしくないじゃないかですって?もうちょっと露骨に言いましょうか。「正直に行動する」と、そうしないよりも「善い」のは「得をする」から。どのくらいの得かと言うと、「大統領になれるくらいに」。コレが日本人がこの話を尊ぶキモです。つまるところ大統領だから尊いのです。戦前なら天皇陛下、江戸時代なら征夷大将軍様です。偉い人がやったことだからすごいのです。この国はずっとそうです。

 この国の言論や政治の特異なところは、道徳論が未熟であると同時に、合理的な判断もまたできないところです。たとえば未婚の女性都議が「はやく結婚しろ」「子供を産んでから」などと言われた事件にしてもそうです。結婚しないと少子化問題を論じてはならないのです。この国は。子供を産まないうちには子供について論じてはいけない国なのです。東大をでないと東大を批判できない。被災者だけが震災について語ることを許される。障害者について批判的な言論をすることが許されるのは乙武さんだけなのです。つまり、「当事者性」が異常に重要視される。もちろん経験した人だけに分かることというのはあります。でも、未経験者を未経験である、ということだけを理由に「あなたに何が分かる!」と議論から排除したら、話はいつまでも内輪話か、経験者の体験談を聞くだけの会になります。問題は共有されず、新たな視点も得られないままです。斯様にこの国では、「何を言ったか」が重要なのではない。「誰が言ったか」が重要なのです。これがこの国の論理性軽視の伝統です。当事者性だけに徹底すればまだマシなのですが、そこに「権威主義」が重なれば最悪の結果を産みます。「当事者」だけが問題を語る資格を得る一方で、当事者でもない「偉い人」が何か言えば、「さすが世界の○○。重みが違う。」などとみなが納得する。そこに正常な判断が生まれる余地はありません。

 少子化担当大臣にふさわしいのは、少子化問題を解決する能力がある人、もしくは実績がある人、であるべきです。子供を産んだからといって少子化問題に詳しいわけではない。むしろ場合によっては逆かもしれない。そもそも女性である必要もないわけです。合理的で論理的であるべき政治の世界の大臣の選択さえまともにできない。たとえば、子供を安全な学校に通わせたい。どんな学校が安全か?と聞いたら、「子供が行くところが、安全な学校だ」と答える先生がいたらどう思うでしょうか?実は、これと全く同じ論理構造を持った発言で国会答弁をした総理大臣がいます。しかもここ30年で一番人気のある総理大臣でしょう。日本というのはそういう国なのです。

私は、倫理的に行動することの前提には論理的である必要がある、という信念を持っています。もちろん論理性=倫理性ではありません。ただし、論理的でない人間は倫理的になれない。この論理性の軽視が日本の倫理的未発達を生んでいる、そのように思います。

 そもそも、うまく立ち回ることが、善いことなのでしょうか?友達から信頼され、多くの友人を持つ人間は、必ず善い人間なのでしょうか?友達が一人もおらず、誰からも愛されない善人というのは、不可能なのでしょうか?つまるところ、善い人生とは、幸せな人生なのでしょうか?その「区別」が必要だ、と私は考えますが、そうではない立場の人もいるでしょう。しかしそもそも「幸福と道徳を分けるべきか否か?」という問いかけさえ、ほとんどの人は行ったことがないのではないでしょうか?それをさせずにきた日本の道徳教育の罪は重い。だから現状のような、非論理的で、権威主義的で、おまけに打算的な行動規範が尊ばれる倫理状況が生まれている。道徳の問題を考える場合の複数の方法論があるのに、どれ一つとしてまともに機能していない。未分化なまま、道徳に関係ないものまで混入したキマイラが道徳の顔をして権威を振りかざす。日本の道徳の状況は悲惨です。

 そんな現状を切り分けて、整理して見るための方法論を、この一冊は明快に与えてくれることでしょう。西洋倫理学の基本的な立場はほぼ全て網羅されています。別に西洋の倫理学的伝統に従う必要はありません。道教の道徳思想に従っても構いません。ですが、間違いなく、道徳について論理的に考えるさいの大きな武器を、我々はこの一冊で複数得ることができます。功利主義も、リバタリアンもコミュニタリアンも、動機説も、正義論もすべて明快に理解させてくれます。アマゾンかなにかの書評で、「サンデルは審判のふりをして実はそのうちの一つの立場に立っていて、ずるい」とかなんとか的はずれなことを書いていた人がいましたが、自分のコミットする立場を明確にしていることが、逆にフェアプレーを保証していると思います。しかもそれぞれの立場に対して等しく、強力な反証を並べてその都度吟味している。その結果、彼がどう判断してジャッジしようと構わない。重要なのは「何を基準にして」、「どのように判断したか」を明確に示しているか否か。私たちはその過程を吟味しさえすればいいのです。21世紀でおそらく最も独創的、ということは決してないものの、21世紀で最も明快な倫理学者の思考過程を丁寧にたどることができる。こんな刺激的な経験をせずして、何のために21世紀に生きているのか。ハーバードに入れないかわいそうな僕たちにできる唯一のことは、TVを見るか、この本を読むことだけです。