慈眼寺 副住職ブログ

真田丸

「真田丸、城外孤立の砦だった!? 最新の等高線調査で可能性高まる 大阪 産経新聞 1月14日(水)」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150114-00000023-san-l27

 非常に興味深く読ませてもらいました。

真田丸のあった上町台地のある上本町というのは、上宮、清風、大阪女学院、夕陽丘、高津、清水谷、明星など、非常に多くの学校が集中している町ですが、同時に歴史的にも谷町の寺町のすぐそばにあり、上方文化の色合いが残されている町でもあります。あの、桂枝雀の落語で有名な「高津の富」の高津神社もここにあります。常識に類することですが、スポーツ選手を後援する「タニマチ」という言葉はこの地域の富豪が相撲取りのパトロンになったことが語源です。

既にここまで書いただけで「谷」という言葉は二度出てきていますが、鶴橋方向から真田山公園に向かっての傾斜は急で、高津高校のある餌差町付近で頂点に達し、清水谷高校のある玉造方面に向かってまさしく「谷」があります。これが造成されかなり緩くなったものだったというのは初めて知りました。そもそもこの「餌差」という地名も相当珍名に属しますが、その由来はここが城下町の東の出入り口にあたり、藩主のための鷹の餌を差し出す「餌差」をここに置いたことにあるらしいので、大阪城との関わりが非常に強い場所だったことがここにも伺えます。電車や車に乗っているとなかなか見えてこない地理関係ですが、こういったことは歩いたり自転車に乗ったりするとハッキリわかるものです。

実は私にとってこの場所は非常に思い出深い場所であり、現在まで副住職と兼務して続けている教員になるきっかけになった場所がまさしくこの餌差町の高津高校なのです。

当寺大学院の研究室にいた私は、塾の講師や家庭教師で授業料をまかなっていましたが、留学のとき塾をいったん辞め、なんとなく大阪府の教員登録制度に名前だけ載せていました。そんな私に突然電話がかかりました。病気で休養される先生の代わりに、すぐに来週から来てくれないかというお誘いでした。高津といえば名門です。とても自分ではできないと思いましたが、臨時のことだし、一度学校というところで働いてみよう、と思ったのがはじまりでした。

そこで見た光景を、たぶん私は一生忘れないと思います。高津高校は「自由と創造」を教育目標に掲げる学校ですが、ただただ勉強ができるだけではない、自主と自律の気風がいまだに色濃く残り、休憩時間には生徒さんたちがダンスを練習したり、楽器を演奏したりするあいだを通り抜けて廊下を歩くと、校庭では自主的に開かれたサッカー大会が催されている、といった具合に、その教育目標が、多くの他の学校のように掲げるだけではなく、生徒さん自身がここで学ぶことに誇りをもってその目標を体現しているように感じました。そして、ここで初めて、行きがかり上バド部のコーチのようなことをするようになり、現在もほかの学校で同じようなことを続けさせてもらっているきっかけにもなりました。自分がこれまでの人生でひたすらインプットしてきた別々のことが一つの形で有機的に結合して、自分の歩んできた道すべてに、もしかして意味があったのかもしれない、そう思えた場所がここでした。あまりに楽しすぎて、朝早く来すぎてしまい、ひとりで教科室を掃除していたくらいです。実話です。

あそこで授業をするために登っていた坂が、実は断崖といっていい深い谷で、その谷のてっぺんで、真田幸村が大軍勢を敢えて引き受けて奮戦した、と考えると、自分の足元の地面に何層もの誰かの生き様が刻まれているようで、ちょっと歩くのも憚られる思いです。

先日愛知大学の藤田佳久さんとお話する機会があり、明治22年の十津川村の洪水の遠因は、地租改正だ!という珍説ですが至極真面目な学説を聞かせてもらって面白かったのも思い出しました。地理学って学校で習うと全ッ然面白くないんですが、ホントはもっともっと面白いと思うんですよ。本当に。藤田さんには「そのままでも面白い!」と怒られるかもしれませんが(笑)。