慈眼寺 副住職ブログ

快慶展

先日、行ってまいりました。快慶展。

いやー素晴らしかった。

以前言いましたが、海外流出の作品も含めてあれほどの作品が勢ぞろいするのは、確かに「二度とないのかもしれない」と思わせるランナップ。展示の方法にも工夫が見られ、阿弥陀如来立像の時代別の変遷、技法の変化などが分かるように円形に並べられていたり。あと、巨大すぎて呼べないような安倍文殊院の文殊菩薩や兵庫の浄土寺の阿弥陀如来なども、呼べない代わりに写真を置くなどして、快慶の作品の全体像が掴めるようになっていました。

中でも一番感動したのは、一番最初に展示してある、醍醐寺の弥勒菩薩坐像。

恥ずかしながら初めて見たのですが、見た瞬間、鳥肌が立ちました。

時が静止したような美しさ。

「生きているような」という表現はたやすいですが、その「生きている感」の表現を、動かすことではなく、止めることで表現している、と言いますか。まさにいま生きて動いている瞬間で時間を凍らせて今ここに現出させているような。

細部の作りこみと全体の調和。全体的に生きているような柔らかさを感じさせるのに、凍り付いたような精緻な印象。快慶の作品の特徴の、まさに「真髄」とでもいうべきところが、凝縮されたような、ものすごい作品でした。

この弥勒菩薩をはじめ、千手観音や孔雀明王などの豪華で大ぶりな作品と、とことんまでシンプルさを追求した阿弥陀如来のたくさんの作例。当たり前なんですが、この仏さんはこういう顔、という顔つきのキャラクター付けもハッキリしていて面白かったですね。

娘も連れて行ったのですが、勝手に仏像のポーズを真似していて、発想が面白いなと思いました。さすがにすぐ飽きてたので、そこは困りましたが。今度もう一度一人で行きたいです。

ひとしきり見た後、もう一度見たいものを何体か見て、最後にまたまた弥勒菩薩。一回で3度見ましたが、三度目には、本当に不思議なのですが、涙が出てきました。大げさかとお思いかもしれませんが、私にも理由がよく分からない。思わず手を合わせたくなる荘厳さがあります。さすがに快慶随一の傑作と言われるだけのことがあります。

来迎寺の善導大師坐像は、と言うと、結縁というテーマの展示スペースのなか、最初は見えないのですが、いったん視界が途切れて、急に現れるように展示してあります。急にのっそり出てくるような仕掛けがピッタリでしたね。いつも本堂で見るよりずっと黒っぽく見え、この像の不思議な魅力が倍増されて見えました。

前から見たかった山添村の西方寺さんの阿弥陀如来さんも見ることができ、この地方の念仏信仰の広がりをくっきり再確認できた気がします。

さて、最後はグッズコーナーでお楽しみ。

先ほどの弥勒菩薩坐像ファイルを発見!コレは買わないと!仏像ファイルはたくさん持ってます!

そして!出た!来迎寺善導大師坐像マグネット!

実は事前に読売新聞から商品化のご依頼があったのです。冷蔵庫なんかに貼ってください!
既に読売新聞さんから10個は頂いているのですが、売れてなかったら悲しいので自腹でさらに一個買いました(笑)

ちなみに大事な話なので断言しておきますが、マグネットが売れても、我々には一銭も入りません!(笑)

あと、展示することによってお寺が金をたくさんもらっているのであろうというような邪推をされますが、とんでもないですよ。ここ、大事な話ですけど、額を正確に言うのはやらしいので、比喩で表現します。数か月お貸ししても、高校生の一日のアルバイト代より安いです。小学3年生のお年玉くらい?結局、輸送・管理に莫大な費用がかかるので、博物館側にそんな余裕があるはずもないのでしょう。

ウチは拝観料とか頂いていないので関係ないですが、拝観料をとられているお寺などでは、貸し出し中参拝客も激減すると思われますので、本当にお金の話で言えば損の方がよほど多いと思われます。たくさんの人に見てもらうという気持ちだけでみなさん出陳なさっていると思われます。

下世話な話をしましたが、とにかくこれだけの作品群をまじまじと、中にはガラス越しでなく、間近で見られるこのチャンス。普段見られない裏側までじっくり見られます。私はやっぱり一体一体じっくり本堂のお厨子の中にあるのを眺めるのが好きなのですが、こういう見方にはこういう見方なりの良さも当然あります。そして何より、いいものはどんな見方をしてもいい!

せっかくの連休、渋滞のなかしょうもないテーマパークでネズミや猫の着ぐるみと戯れるより、日本最強仏師の作品群をじっくり見る。これが日本人の休日の過ごし方ですよ。