慈眼寺 副住職ブログ

「お盆」を受け継ぐ

さて、本日は兼務している山のお寺の檀家様のお盆のお参りとお施餓鬼を一日でしてきました。
あちらの方はお盆の風習がかなり伝統的な形で残っています。なんといっても奈良市内で土葬の風習が残っているところですから。お盆のお祀りの仕方もこちらに来るようになって知識の上だけであったことが再確認できて貴重な体験です。

お盆2

こちらは許可を頂いて写真撮影させて頂きました。
みなさんの家は普通にお仏壇にお供え物やお花を飾るかと思いますが、本来はこのようにお盆中はお位牌を外に出し、別の棚=精霊(しょうれい)棚を作ってお祀りします。家にある普通の机で結構です。その上にゴザを敷いてお位牌を並べます。お位牌を出すだけなので特別お性根抜き(抜魂)は必要ありません。お位牌を出さない場合は、戒名を書いた木の札をこの棚に並べます。もしくは、新しいご先祖のお位牌だけを出し、だいぶ前の先祖様は木札にするおうちも、過去帳だけを置いておく場合もあります。そこは各家庭や地域で多種多様かと思います。

このような盆飾りをしているあいだ、お仏壇は閉めてしまいます。お花も飾りません。飾るのはこっちの精霊棚。この地域では麻ガラのはしごは作らず、麻ガラはお箸のようにご飯に添えます。ご飯は柿の葉を皿がわりにしているようです。蓮の花はさらにその下に敷物のように使っています。

実はもっと古くは、この棚を家の外、玄関の前に飾っていたようです。お坊さんは家に上がらず、玄関前でお経をあげて回っていたようですね。その名残だと思われるのがコレです。

お盆

奈良市のど真ん中でもこうして玄関先や縁側にご先祖以外のあらゆる霊に対してお供えや飾りをする風習は残っています。昔は逆に外がメインだったわけですね。おうちのによってはこの外の飾りにもお経をお願いなさる方がおられたり、新しい仏様がいるときにはこちらでお経をあげることをご希望なされる方もいます。かつての外の祀り方が残っている一例かと思います。

本来は、とか、昔は、などと言いましたが、先祖を祀る気持ちに良い悪いもありません。あくまで民俗学的な興味でこういうお話をしました。

やれ麻ガラのはしごは7段だ!13段だ!線香は1本だ!2本だ!3本だ!13~15日はおうちに先祖様が帰っているので、お墓は空っぽだ!だからお墓参りに意味はない!などと色々な説が乱れ飛びます。

ああ、そういえば!なんかお盆前にTVでどっかのお坊さんが「お坊さんの歓迎の仕方」らしきものを話されたようで、今年みなさん急におしぼりを出されたり、冷房をキンキンに冷やされたりしておられて、困惑しました。TVは見ないのでどんな内容かよくわからないのですが、いいかげんな「正解」をおっしゃれるのは困ります。

なんでもそうですが、地域ごと、ご家族ごと、宗派ごと、お寺ごと、お坊さんごとに様々な事情があります。これが正解だ!などというものはございません。

お線香が1本だ、というのは「二心のない」の意味だとおっしゃる方もいれば、「お釈迦様と阿弥陀様に一本づつだ」とおっしゃる方もいて、三本派は「仏・法・僧」のそれぞれにという説をおしていたりします。お焼香だって2回だとか3回だとか1回だとか、どれももっともらしい答えが用意されています。どれももっともらしいならどれでもいいわけです。確かにお盆におうちに帰っているなら、お墓は空っぽですが、空っぽのうちにお掃除しておくということもできます。もっと言うなら、その理屈で言えば、お盆以外はお仏壇が空っぽということになりますから、お仏壇に手をわせる意味がなくなります。だからといってお仏壇に手をわせることはやめないですよね。しょうがないじゃないですか。休みがその日にしかないんだから。

結局理屈を言い始めるとその理屈に縛られて大事なものが失われてしまいます。

お釈迦様の言ったことは、基本的に一つだけです。

すなわち、「こだわるな」です。

ご先祖様に手を合わせたい、というまっすぐな気持ちこそが大事なのであって、そこからこの世の一切の無常、相対性に至るのがゴールであります。悟りです。私がこのようなお話をしたのは、今、生きてらっしゃる大事な大事なおじいちゃんやおばあちゃんやお父さんやお母さんと、一緒にご先祖様をお祀りして、どんなやり方をしているのかを見ていて頂きたい、という気持ちからです。

正解はありません。ただ、私が死んだときには、私のやっていたように、子供が私を祀ってくれたら嬉しいな、とは思います。たとえ子供が私のやり方を忘れてしまっても、真似をしてくれた、ということが嬉しい。なんでもすっかり塗りつぶされてTVやネットの「正解」で埋め尽くされる社会で、「受け継がれていく」ということの価値を、私は積極的に守っていきたいと思います。

「受け継ぐ」というのは形だけを考古学的に同じにするのではありません。それはあくまで結果です。家族が一緒にいて、みんなで手を合わせてお祀りした。その時間の濃密さが、結果として形に残っていくのだと思います。別に渋滞でうんざりした思い出でもいいじゃないですか。「おじいちゃん、またこの話か。」聞いてあげてください。楽しいだけが家族ではないですから。色々な感情を持ちながら、ただただ一緒にいるのが家族です。それ以外何の意味もありません。気が合うから一緒にいるのではないのです。何らかの理由で選んだわけでもない。仕方なく、選びようもなく、一緒にいるのが家族です。きれいごとだけでは家族はできません。世の中どんどん楽な方、気持ちのいいほうに動いていますが、お盆くらいは、ただただ一緒にいてほしいなと思います。

坊主のひとりごとが長くなってしまいました。お盆に海外旅行に行けない人のひがみだとお笑いください。