慈眼寺 副住職ブログ

廻向

廻向って、なんだ???

さて、今日もお墓の掃除をしていました。毎日毎日、掃除をしても掃除をしても、新しいお花が供えられ、枯れてゆきます。
そしてそのお花をゴミ袋に詰めていますと、「供養」とは、何なのか?と考えることがあります。

お盆まではだいぶありますが、今日は供養、もしくは「廻向」について考えてみたいと思います。

墓回向、塔婆回向など、みなさん廻向をたくさんなさっていると思います。そして浄土宗では、その度に必ず

願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国

という言葉を読んでいます。「願わくは、この功徳をもって、平等一切にほどこし、同じく菩提心をおこして、 安楽国に往生せん」これを、総回向文といいます。

しかし、私たちはこの「総廻向文」の意味をきちんと理解しているでしょうか。先日、少しだけこの言葉を噛み締めて、この言葉に向き合って、一つ自分の中で整理できた気がしました。この意味をしっかり理解することで、浄土宗だけでなく、大乗仏教の一番大事なところを理解できる気がします。ものすごく大事な言葉だと思います。ちなみに大乗仏教とは、みんなで、一つの舟に乗って悟りを開くということ。一部の偉い人だけが悟るのではない、ということです。これも重要なポイントです。

ご先祖に念仏する意味、ある???

そもそも廻向とはサンスクリット語のでは「パリナーマナー」。廻し向けることを意味します
誰に回し向けるのか?もちろん父母や先祖代々です。「○○院○○禅定門超生浄土」「○○家先祖千亡一切生霊追善増上菩提」なんて私たちはいつも唱えているわけです。廻向とは、亡くなった人に供養をし、「亡くなった人に念仏を廻し向けることで、自分が浄土に行こうとする行為」を意味しています。

しかしおかしくないでしょうか?死んだ人は浄土宗ではみんな既にお浄土にいます。お浄土にいる人が浄土に行くようお願いしても意味がない。自分はお浄土に行けていないくせに、既に行った人のために念仏を唱える、おかしくないですか?受験生が大学生にガンバレ!と言うようなものです。これはおかしなことです。

ここで重要なポイントは「自分が」というところです。でもそのまえに。

「先祖」って誰???

たとえばわたしたちは誰にでも、父と母がいます。その父と母にも両親がいる訳で、二代さかのぼっただけで4人の人の血が自分には流れていることになります。一人あたり両親二人だから、1代遡るごとに、先祖の数は2倍になる単純計算です。つまり、n代前は2のn乗人先祖がいることになります。 三代前は8人、四代前は16人、五代前になると32人。5代さかのぼれば32人の血が自分の中には混じり合っているということになります。さらに計算して、10代、20代、30代前はそれぞれ、2の10乗 = 1024、2の20乗=104万8576人、27代前で1億人を突破し、30代前になると約10億ということになります。30世代というと一世代を平均で25年として750年。今から750年前には、わたしと血のつながったご先祖さまは単純計算で10億人。これってインドや中国の人口に匹敵します。このまま遡れば、ご先祖様は地球の人口より多くなってしまいます。

これは単なる数字のマジックです。この計算式では遠い親戚同士が結婚することを想定していません。それに早く死ぬ人のことも計算していません。あくまで単純計算です。ただ、一つ言えることは、「先祖代々」と口で言えば一言だけれど、そこに想像もできない、会ったことも聞いたこともない知らない人がたくさん関わって、今、「自分」がいることがわかります。

さらに言えば、何も自分が今ここにいるのは、血の繋がっている人間のおかげだけではない。見たこともない親戚より、命を助けてくれたお医者さん、消防士さん、警察官、恩師、通りがかりの親切な人、この世のありとあらゆる人のおかげで、今、「自分」はここにいる。本当は、そこにも廻向は廻し向けなければならない。「平等一切に施し」とはそういうことです。

プロは先祖供養しない

かつて親鸞さんは『歎異抄』のなかで

「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」

と言っています。

法然さんも『選択本願念仏集』のなかで、

「孝養父母とは、これについて二あり。一は世間の孝養、二は出世の孝養。世間の孝養とは、孝経等の説のごとし。出世の孝養とは律の中の生縁奉事の法の如し」

と言っています。

「世間」とは在俗の人々、つまり僧侶ではない一般の人々のことであり、「出世」とは戒律を受けた出家者つまり僧侶のことを意味します。つまり、法然さんは「世間の孝養」は「孝経」つまり論語になどに説かれる父母を大切にすることで、出家の孝養とは「律」つまり出家者の約束事を守ることが孝養に他ならないと説き、一般人と出家者の「孝養」は違うのだ、と区別しているのです。実は道元さんもよく似たことを言っていますが、今日は割愛します。

つまり、日本仏教史に燦然と名を残す方々が、お坊さんのやる、本当の孝養=廻向というのは、父母のためにするものではない、とハッキリ言っているわけです。父母のためにやるのは在家の人のための、いわばステップ1にすぎない。これをきっかけにステップ2、3と移っていかねばならない。その次のステップを理解するために、どうしても重要なキーワードがあります。それが「空」です。

元気を出せば、なんでもできる。廻向をすれば、空になる。

般若心経は仏教の一番大事なエッセンスを集めたお経ですが、そのさらにエッセンスはなんだといえば漢字一文字、すなわち「空」です。これは「無」ではない。「仮」という意味です。何が仮か?ありとあらゆるものが「仮の姿だ」ということです。ですが今日は一つに絞りましょう。「私」だと思っているものも仮のものなのだ。空なのだ、ということです。少し前に東京駅のスイカが売り切れたといって大混乱がありました。私に言わせればアレは修羅の世界、地獄の世界。地獄は遠くにあるのではなく、この世こそが地獄です。「あの人は買えた」のに「自分」にはない。自分、自分、自分・・・

でも、ここまで読まれた人はわかると思いますが、「自分」が存在するためには先祖代々何億人もの、身の回りの何億人もの人間がいてはじめて可能なのです。これが縁起ということです。その見方に立てば「自分」とは「父母」であり「先祖」であり、「身の回りのすべての人間」すべてを含んだ「一切衆生」ということになります。自分はみんな、なのです。今まで思っていた小さい自分を捨てて、自分が空であることに気づく

ここで、唐突ですが、大乗仏教の根本の教えについて考えてみます。

「一切衆生悉有仏性」という法華経の言葉です。

通常は、「すべての人間(生き物)は悟りを開くことができる」という意味です。
ですが、この言葉から、「誰もが悟れる」だから「みんなで悟ろう」という意味合いも当然帰結します。だからこそこの言葉は大乗仏教を象徴する言葉になっているのです。従って「一切衆生悉有仏性」とは、端的には「小さな自分ではなく、大きな自分で悟ろう」という意味合いですが、大乗の教えを徹底するならば、さらに一歩進んで、「大きな自分でなければ、悟ることはできない」という意味をも含んだ言葉であるべきです。そして「大きな自分」とはすなわち「空」に他なりません。

ということは、ですよ。ここまでの話をまとめると、廻向をきっかけに、父母や先祖に念仏供養をすると、結果的に「空」がわかる。「空」になれば、「自分」の範囲が広がる。自分に向けた念仏は他人に差し向けられ、他人に向けた念仏が、自分に帰ってくる。誰かの為にやっていたことがそのまま自分のためになる。と、いうより、自分とか他人という言葉の意味がなくなる。空になる。

誰かに廻し向けていたつもりが、本当は自分に廻し向けていたことがわかる。これが「廻向」の本当の意味ではないでしょうか。よく言われる、念仏を唱えるのではなく、念仏を唱えさせていただく=他力の念仏というのは、本当はそういう意味なのではないでしょうか。

「空」の概念は、実際には非常にインド・ヨーロッパ的であり、非常に論理的で、論理の限りを尽くして、論理の極限に立ち、その先の「論理を超えたもの」と対峙するような、厳粛な概念なのですが、今日は、身近なところから「空」に繋げてみました。その話はまたいつか。