慈眼寺 副住職ブログ

「遺書」

縁起の悪いタイトルで失礼。

ココで書いたことがあるかどうか忘れましたが、気にせず書きます。

実は当ブログ、「遺書」のつもりで書いています。

私の娘は私が39歳のときに生まれました。
若い頃は漠然と、父や母のような年齢で子供を授かり、当たり前のように家族を築いていくと思っていました。

が、人生は何があるか分からないもので、ここで書いたことのあるように、長く不妊治療をして、結婚6年目でようやく娘を授かりました。39歳でようやく娘を抱いたとき、

「さて、俺はいつまでこの子と一緒にいられるのだろうか」

と思いました。

祖父のように96歳まで生きられるのかもしれない。母のように50代で死ぬのかもしれない。
もっと早く突然何かの事故で死ぬのかもしれない。

母は私に遺書を残しましたが、私にはそんな覚悟を整える時間もないのかもしれない。

もしそんなとき、娘が、娘を毎日育てている私の書いたものを読めたら。

仲が悪くて全然読まずにこんな恥ずかしいサイトを削除するかもしれませんが、そのときはそのとき。

母の生前の言葉なんかは、お友達から、ふとしたときに、ポロっと出てきたりして。
そういう思いがけない「発見」も楽しいのですが。

まさに生きている私が、いずれ死ぬことも忘れて楽しげに書いているこの文章を、娘がどんな気持ちで読むのだろうか。

いつしかそんなことを考えて、このブログを綴るようになりました。

 

明日死ぬつもりで生きよ。

永遠にいきるつもりで学べ。

 

私の大好きな、ガンディーの言葉です。(ちなみに小学校の時は「鑑真」と混同していました。)

毎日毎日、「遺書」を紡ぐように、生きていけたらと思います。