慈眼寺 副住職ブログ

ドラマティックな人生

お坊さんが腹立てたらアカンのですが、最近ものすごい腹が立つことがあります。

それは、「余命〇年」設定の映画です。

多すぎやしませんか。

余命1年の美少女とか美青年が限られた時間で恋する話。

もうええっちゅーねん。多すぎるっちゅーねん。

イケメンと新人女優とりあえず使って爽やかな画面にして、「泣ける」設定にして「はいはい泣いてや~」みたいな共犯関係。

気持ち悪いなぁ、と。

人の注目を集めるのが必要なのは分かりますよ。映画だって商売ですからね。でもあまりに何も考えてない。ちょっとワンパターン過ぎる。それに「死」というものを非常に冒涜しているように思いますね。

おばあさんが長く患って床ずれ痛い痛い言いながら何年も何年も生きて、誰もお見舞いに来ないまま死ぬ話とか、たしかにドラマとしてはきついですよ。映像的にドラマティックではないような気がしますよね。散々世の中に溢れていることですけれども。

でも「死」ってそういうものでしょ。

誰もが必ず死ぬことだけは間違いない。その意味ではこんな平凡なものはなく、同時に誰にとってもドラマティックの塊みたいなもんです。これ以上の大事件は存在しない。どんな平凡な人生でも、その誕生と死は、他に比するものがなく、隔絶して重要なのです。世界そのものと言っていい。

それを、耳目を集めるためだけに宣伝に使う。

コレは本当に不遜な行為です。卑怯です。

人を従わせるために「言うこと聞かないと死ぬよ!」と脅すようなものです。

死という厳粛で、自分ではどうしようもないはずのものを、交渉の道具に使うわけです。

本来は誰もが余命〇〇年なのです。誰もその〇〇の中が分かりません。分からないからこそ、生きていることが価値を持つ。

余命〇年だから注目してくれというのは、命に対する冒涜です。こういう映画を見ることによって生きることの価値を学ぶとも思えない。私は逆だと思います。「死」をちらつかせることでしか、自分の生を価値づけられない人間を生む気がします。

もちろん、現実に病気で苦しむ方々はいます。余命宣告され、その恐怖と戦いながら、日々を過ごす人はたくさんいる。そうした人たちの生きざまから学ぶことは多いですし、それによって今元気でいられることの有難さも感じられるでしょう。

ですが、こうした映画やドラマは、ちょっときれいごと過ぎる。

さっき床ずれの話しましたけど、寝たきりの人は2~4時間置きに体位変換しないと褥瘡(じょくそう)ができます。「褥瘡」ってすごい字面です。痛そう!いかにも痛そう。人工呼吸器や、人工肛門、胃ろう、人工透析、つらい治療はたくさんあります。ALSの患者さんのドキュメントを見ると、自分がなったらどれほどの恐怖だろうと思ったりします。それでも元気に前向きに頑張ってらっしゃる方もたくさんいる。もう死んだ方がマシ!なんて思わず漏らす方もいる。私なら漏らしまくり。だだ洩れ間違いなし。

大変なのはそうやって辛いことを抱えながら「生きていく」ことなのに。

綺麗に死んでしまったことだけにスポットライトを当てて、きれいごとだらけの映画で死を美化する。

病気になったら人は性格も変わります。「あんなに優しかった人が・・・」っていう人が、鬼のようになったりする。看病する自分が「鬼」になることの方が多いかもしれない。

いつもいつも感動できるわけじゃない。

現実がそうだからこそ、映画の中くらいは・・・っていうことなのかもしれません。

それじゃあ弱い野球チームが頑張って優勝する話とかにしてほしいですね。

「死」だけは迂闊に扱ってはいけない。

猟奇殺人があったときにホラー映画なんかがやり玉に上がりますが、私はこの「余命」系の作品の方がよほど規制の対象にしてほしい。人間の暗部を扱う作品は人間を学ぶきっかけになりますが、この手の作品は、作品自体は綺麗ごとなのに、その作品を取り囲む「構造」が「人間の暗部」そのものだと思いますね。非常に反・人間的だと思います。

若くて美しい人が死ぬのは確かに悲しみを誘いますが、そうでない人の人生も全く同じ価値を持つ。

そういうあたりまえのこと、いちいち言わずにおれないのは、私が愚かだからでしょうか。みんな分かってて泣いてるのかな。

泣けないなぁ。私は。

泣かないなぁ。ぜったい。