慈眼寺 副住職ブログ

仮面ライダーアマゾンズ考

アマゾンズ最高や!

仮面ライダーアマゾンズ、エピソード2が佳境を迎えつつあります。めちゃくちゃ面白いです。アマゾンプライム入ってよかった。

昨晩、アギトのイコンと絡めて、もしかして七羽さんとか千翼はエルロードなんじゃないのとかツラツラと書いていたんですが、書いているうちに、そんなことは些末なことだ。アマゾンズ全体を貫くテーマって何なんだ、ということの方がめちゃくちゃ面白くなってきたので、昨日書いたことは全部消去して、「アマゾンズ、それは愛」ということについて書きたいと思います。(まだエピソード2を見てない人はネタバレ注意であります。)

アマゾンズに出てくる登場人物の中で、私の心をとらえて離さないのは鷹山仁。そして橘局長、さらに野座間製薬の会長のおじいちゃんであります。みんな演技がうまい!カッコイイ!局長なんかは仮面ライダーオーズのドクター真木でも大好きだった役者さんですが、今回のオールバックのダンディぶりはたまりませんね。しかしこの「オーズ」という作品、かなり好きな作品なのですが、アマゾンズと対にして見比べると非常に興味深い。ちょっと最初にオーズの話を。

「オーズ」と「アマゾンズ」

オーズは「欲望」の物語。キリスト教の七つの大罪の一つをモチーフにしたグリードという怪人たちと人類の戦いの物語でした。ですが、人類の側が「欲望」を抑える側かというと、そうではない。主人公は「欲望」を持たないがゆえに、欲望の力の源であるコアメダルの器にされてしまう。そして、戦いを重ねる中で、欲すること=誰かを傷つける可能性を恐れず、欲望に対してまっすぐ向き合うようになる。また、主人公に力を与えた欲望の象徴たるアンクというグリードもまた、ただ求めることでは満たされることはなく、「限りあること」を受け入れることで真の満足が得られることを悟って死んでいく。

また、最大の敵として現れるドクター真木は「終わることこそが完成である」という思想のもと、「来たるべき終末」を見届けることに向かって突き進みます。そんな彼の思想の原点は、優しかった姉が結婚を期に自分を捨てて冷たく変貌した(かのように見えた)ため、屋敷に火を放って姉を殺害した過去。

「世界は終わらせなければならない。美しく、優しいうちに。いずれ、その人を醜く変える前に。」

という「善き終わり」思想は、言ってみれば「死の肯定」でありつつ、その実「生への執着」を歪んだ形で発露させたもののように思いました。つまり「美しい生」だけを過剰に肯定した結果、そうでないものを拒否する行為です。

このドクター真木と好対照を為すのが鴻上ファウンデーションの会長、鴻上光生です。毎日ケーキを作って「ハピバースデー!」と野太い声で何かの誕生を祝い続ける奇怪な楽天主義者。「素晴らしい!」と常にポジティブに世界と欲望を肯定し、オーズたちを助けますが、実はグリード発生の元凶も彼であり、思想が真逆のドクター真木に援助し、そうしたすべての要素が飽和して停滞した世界を動かしていくのを楽しんでいる人物です。

キャラ設定が不徹底で、結局登場人物すべての人格が支離滅裂で終わった印象も強かった本作ですが、アマゾンズはそのあたりの交通整理をかなり徹底して行ったリファイン版オーズといったところも感じています。

オーズとの対照というのはアマゾンズの見方をガラッと変えます。元祖「アマゾン」ばかりを見ていると何も見えなくなります。六枚の羽根に踊らされてアギトばかり見ていると底の浅い絵解きに終始してしまいます。

会長はいつも喜んでるだけ

ここで容易に思いつくのが、鴻上会長=野座間製薬の会長天条隆顕だということ。

名前も象徴的です。理を(さかん)にして現させる存在なのですね。ここでいう「天条」とは「生存競争と、それによって起こる限りない進化」ということです。アマゾン細胞を世にばらまくことで、日本に新たな生態系を作り出し、その先を見届けたい。完全なマッドサイエンティストなのですが、面白いのはこの人物、実は科学者としては何もしていないので、サイエンティストですらないということ。アマゾン細胞を開発したのは鷹山仁。人間の遺伝子にアマゾン細胞を加えた人体実験を自らの身体で行ったのも鷹山仁。アマゾン細胞に人間の遺伝子を移植した滑舌が絶望的に悪い人は温泉に行ってた水澤令華。

結局サイエンティストはまわりの人々で、天条は何もしてない。ばらまいて喜んでるだけ。これ、まるっきりオーズの鴻上会長なんですよね。鷹山仁に「一番おかしいのはアンタ」と言われてしまいますが、それも納得のマッドサイエンティストならぬただの「マッド」なんです。また会長が第10話で象徴的な言葉を吐きます。

「人は始めることはできても、終わらせることはできないのだよ」

この言葉はアマゾンズをずっと見てきた人間にとって非常に印象深い。じゃあどういうことよ?と言われれば結構穴があるんですが、「なんだかよくわからんが、とにかくすごい自信だ!」と感心させる筋肉がある。GO!GO!マッソ!

この言葉が象徴しまくってる人物、それこそがアマゾンズ内で私が溺愛する人物、鷹山仁。であります。

鷹山仁という禍津神

1stシーズンから圧倒的にカッコイイ鷹山仁。ずっと熱さを秘めつつ飄々としたクールなキャラクターでしたが、トラロック作戦あたりからだんだん壊れはじめ、2stで再登場する頃には完全にヤバい人。洗練された戦闘スタイルは完全に崩壊。目も見えなくなり、シグルイの伊良子清玄みたいになっています。エピソード2も序盤はモッタリした展開でただただグロいのがキツかったのですが、鷹山仁が出てから一気に物語が加速しました。自らがアマゾン細胞を作り出してしまったことに責任を感じ、「人間を守るために人間をやめた」男。

ですが、彼の行動は、むざんなほどに逆へ逆へと悲劇の拡大再生産を行ってしまいます。アマゾンを根絶やしにすることだけに邁進した結果、七羽さんとのあいだににアマゾン細胞を受け継ぐ子供を宿す結果に。これにより、母体か子供のいずれか、または両方が突然変異で溶原性細胞に。結果、アマゾン細胞がヒトへ感染して、全く普通の人間がある日突然アマゾンに変異する結果に。アマゾンを根絶やしにしようとする彼のすべての行為が、逆にアマゾンを増やす結果をもたらします。

さらには、七羽さんを守ってもらうために頼った(アギトでは嫌味ばっかり言ってた)恩師を、偶然から溶原性細胞によるアマゾン化第1号にしてしまい、結果としてイユがシグマタイプのアマゾンになってしまう原因を作ってしまいます。

つまり、エピソード1、2で起こったすべての事象の原因のおおもとは、すべて鷹山仁という激烈すぎる運命。

「全てを終わらせるため」あがけばあがくほど、幾万もの犠牲者を生んでいく彼の運命は悲惨の一言。

「終わらせよう」という行為が、「はじまり」を生む、という形は、仁だけでなく駆除班の面々にも当てはまります。エピソード1の事件を「終わらせる」ことを目的に集まった彼らですが、天条会長の言葉通り、悲劇は全く「終わる」ことはなく、新たな「はじまり」を生むのみです。最もその悲劇性を表すのがフクこと福田。駆除班の仲間を裏切ってまでも母の治療費を稼ぐために4Cに入り、マモルへの友情を捨てきれぬまま行動する彼ですが、そのマモルの行為によって拡散した溶原性細胞によってその母がアマゾン化します。母のアマゾン化を悟ったときのフクの表情は、このシリーズの最も美しく、もっとも悲しい場面のひとつでしょう。大滝のアマゾン化が前原のシグマ化を生み、それがまたイユへとつながっていく。三崎の腕、志藤の駆除班再結成、全てが新たな出来事をはじめてしまいます。

「この世に生まれたことが消えない罪というなら 生きることがそう背負いし罰だろう」

という主題歌が象徴するように、生きていくことは誰かに関わっていくこと。関わることは何かをはじめること。死ぬことですら誰かとのかかわりを生み、ゆえに死ぬことすら何かをはじめてしまう。「存在すること」それ自体が一つの罪であるという荘厳なテーマがそこにあります。

「愛」とは何か

こうした「生きること、存在することが罪」というテーゼから導き出される結論は、「愛」もまた「罪」である、という救いのないものです。

ここでまた浮かび上がるのが鷹山仁。

「仁」とはご存知の通り儒教の根本原理。「人間愛」を意味します。人間であれば誰であれ普遍的に愛するという無条件の人間肯定の愛であります。ここだけ聞けばいい名前なのですが、アマゾンズとは種と種の生存競争が部隊。生物が生きることはそのまま何かを食べること、すなわち殺すことである。「生きること」に厳然と存在する真理を、しかし我々はいつも見ないようにしている。

「人間を愛する」ということは、「人間以外を憎む」こと、したがって「人間以外を殺すこと」に帰結します。

鷹山「仁」が、人を愛せば愛すほど、それは他の種への憎しみを生み、それが増幅されて人間に還ってきます。したがって仁がもがけばもがくほど不幸が拡大再生産されることは、アマゾンズの舞台では当然の帰結なのです。

このディレンマは「人間と人間以外」を線引きする限り必ず引き起こされますが、一人だけこの対立から免れている人間がいる。天条です。彼は人が死のうが、アマゾンが増えようが一向に構わない。そこに「新たな生存競争」が起こるのが彼の願いである以上、むしろ仁の行為による世界の混乱こそが彼の望みということになります。この、ある意味で最も達観した、最も欲のない「傍観者」は、もはや「悪」などという人間界の理でとらえきれない怪人であります。「アンタが一番おかしい」という仁の言葉は、人間やアマゾンという区別を越えて、天条の異常な立ち位置について正鵠を射ています。

橘局長もまた愛の人。というか、彼って徹頭徹尾一番の常識人なのですよね。科学的、唯物論的に生死をとらえ、死体なら利用すればよい。それで生きている人を救えばよい、という発想は脳死と臓器移植の発想と根本を一にします。シグマタイプの開発を何ら悪魔的とも考えない彼の信念がそこにあります。異常なのは生きている人間を弄ぶ鷹山仁であり、水澤令華です。「救いたい」という身勝手な線引きで人を助けたり助けなかったりする水澤悠です。9話で千翼に対して怒りに震えて罵倒する橘の姿は、どこまでも「まっとう」な人間代表でした。人間を守るために人間をやめたのが鷹山仁。人間をやめずに人間を守ろうとしているのが橘局長ということになります。普通の人が少ないこの作品では貴重な存在ですね。ドラゴンボールでいうこところのクリリンですよね。

そして、福田。この福田への考察が、私のアマゾン理解に大きな助けになった気がしています。フクさんいい人なんです。普段は物静かな読書家で、いざとなったら頼りになるスナイパー。仲間を守るために必死で戦い、かせいだカネで母を治療したい。掛け値なしにいい人なのです。

さきほど「生きることは罪である」と言いましたが、だとすれば「愛することも罪なのか?」「愛することも殺すことなのか?」という問いかけが私の中に沸き起こったとき、ちょうど私は境内でビワの実をとっていました。そしてフクさんのシーンを思い出したとき、はたと気づきました。

愛することは、誰かのために尽くすこと。尽くすということは時間と手間を誰かに注ぐこと。愛する母が病気になればその介護をする。自分のしたいことを我慢して、時間を介護に費やす。見方を変えれば、自由に使える時間を失うこと=部分的に死んでいるのと同じではないのか。もちろん、誰かのために尽くすことで「何時間か損をした。その分死んだのと同じだ。」などと考える人は最低の人間です。ですが、そこに一面の真理があることもまた事実。生きるべき、守るべき対象を「人類全体」と考えるのか、「家族」と考えるのか、「自分だけ」で区切るのか。倫理的な問題を別にして、生物が生存していくという厳然たる事実のみに目を向ければ、「自分以外のありとあらゆる人間は、家族であっても恋人であっても、生存競争の敵である」という、種対種よりより一歩進んだ、自分とそれ以外の圧倒的な違いという実存的な問いかけがそこにあります。

そうやって見直せば、「家族」や「恋人」という本来「愛」という言葉で表現されるべきキャラクターのつながりがアマゾンズに出てきた場合、そのほとんどすべてが「殺す」という結末で終わっていることに気づいて戦慄します。

イユの父はイユを喰らい、バラアマゾンは最愛の恋人を喰らい、フクの母はフクを食べようとするところで第10話が終了。

千翼がずっと抱き続ける問いかけは「俺はかあさんを喰ったのか」というものです。

愛することは人を殺すのです。喜んで相手のために自分の一部を殺すことことこそが、「愛」なのです。

愛とは自己犠牲である、というのは宗教で多く語られるテーマですが、これを反転させた最悪のネガがアマゾンズ。逆福音とも言うべき悪魔の書。誰も幸せになれない暗いだけの話。

やがて星が降る

以上、好き勝手にアマゾンズを分析して参りました。なかなかに救いのない解釈になってしまいましたが、個人的には満足であります。

さて、残り3話。この先、物語はどうなるのか。

ハッピーエンドか、バッドエンドか。

色々考えたんですが、ハッピーエンドってこの場合何よってことになります。

七羽さんと仁、イユと千翼が抱き合って涙がポタッと落ちたら世界からアマゾンが消えて、みんな幸せになりましたとさ!

みたいな終わり方、絶対ないかと思いますが、なったらもう天下の大駄作ということになります。

かといって、魔王と化した千翼が世界中を焼き尽くして暗転、みたいな終わり方、もうデビルマンでやったやないかという話になります。どないすんねん、今度はバイオレンスジャックになるんかいという話。

人類が勝つのか、アマゾンが勝つのか。

しかし生存競争に完全な勝者などいない、ということを忘れてはなりません。「人は終わらせることなどできない」のであります。

アマゾンにとっての勝利とは、人間を食いつくすことではないはず。そうなれば食料が存在しないことになる。生存競争とは、食物連鎖がそこに存在するということ。「終わらせて」しまっては自分もまた終わる。

逆に人類はアマゾンを駆逐し尽くすことで「元に戻る」ことになるわけですが、そういう「ハッピーエンド」では千翼も仁も悠もイユも消えてしまうことになる。主要登場人物が全て退場してしまうハッピーエンドというのも、勝者なき勝利という感じがします。

この、どこまでいっても、どこを切り取っても悲劇な物語で、ラスボスというものがいるとすれば、それは七羽さんでも千翼でもなく、ただばらまいて喜んでるだけの人、天上隆顕会長。ただ、死にかけの老人を殺しても何も解決しない。普通の世界の「悪」ではとられられない悪を、どうしたら倒せるのか。っていうかどうやったらあのジジイを悔しがらせられるのか。

それは、「物食わぬ生命など醜悪にして最悪!!」とのたまうジイさんの一番嫌っているシグマタイプが、生命としての尊厳を取り戻すことに他ならないのではないかと思います。痛快です。ジジイがキイイイ!言うて憤死するさまを見たい。

それはイユが人間に戻るとか、意識が戻って千翼の胸で「あり…がとう」ガクッとかで終わるのでもなく!(絶対イヤや!)

じゃあどんな終わり方やねんと言うと、そこは想像もつかないのですが。αにはじまり、Ωに終わったアギトを越えて、Aにはじまり、Zに終わる、予定のアマゾン。「人は始めることはできても終わらせることはできない」と言いつつ、しっかり放送予定は26話で終わりますので、どんな形でこの物語が終わるのか。毎週金曜0時にパソコンの前で正座してあと3回、楽しみにしていようと思いますッ!お粗末!