慈眼寺 副住職ブログ

殺されてゆく人間

煽情的なタイトルで始まりました。エキセントリックであざとい副住職です。

ちょっとしたニュースを見て、「ハッ」と思ったことをつらつらと。

コンビニ、留学生の採用強化

さいきん、コンビニに行って買い物をして、清算の段になってほんの少し違和感のある日本語を聞いて「あ。レジの人外国の人なんだ。」と気づくことが、増えました。それも、ものすごく。この1、2年、もっと言えばこの数週間で、(たまたまもあるとは思いますが)そんな機会が3度4度ありました。

中国の方や韓国の方、だけかと思いきや、インド出身らしき人、東南アジアのどこかの国の人、本当に色々な国の方が日本で働いています。もはや何も珍しくない光景になっています。

これをもって「外国人に仕事をとられる!」とか「日本語が不自由だから、客が困る!」とか好き勝手言ってる人々がいますが、事はそういう次元の問題ではないんですよね。本当に近視眼的と言ったら、近視の人に失礼なくらい、何も考えていない。

取る取られるの問題ではなく、日本人が足りない。

合計特殊出生率が1.4前後をウロチョロして一喜一憂している時代です。ほっとけば減るのです。でも、コンビニは開いておいてほしい!しかも24時間!そんな歪な人口構造で歪な欲望に応えようとすれば、シンプルに外国から人を呼ぶしかない。

それ以前に、日本語で違和感を感じなくても、コンビニの昼の時間帯のレジは、よくよく見れば、日本人の高齢者で占められています。4人に1人が65歳以上という人口分布ですから、当然こうなります。(そしてあっという間に3人に1人になる。)コンビニやファストフードのレジは、高齢者と外国人のコンビでシフトを組むのがほぼ常態ということに、これからますますなると思われます。

そりゃまぁそうだよな、という気もします。

日本で育っても満足に敬語も使えない日本人とか、根気もやる気もない日本人よりは、日本語が拙くても一生懸命仕事をする外国人の方がいいに決まっています。若いのにすぐ疲れたと言って休みたがったり、怒られたらすぐに凹んで立ち直れない若い人より、黙々と慣れない仕事をこなす高齢者の方を雇いたいに決まっています。

ただ、そこまでやっても現行の日本の移民の受け入れ状況では、人手不足はもはや待ったなしの状況で深刻だなと感じています。近くのお店でも、「従業員確保ができないので臨時休業」という状況を、よく目にするようになりました。当然回転率の高い大都市の飲食店の方が、時給を上げられますので、地方都市のアルバイトは求人でどうしても不利になります。人手がいないから、規模を大きくできなくて、せっかくの美味しい店が潰れてしまう、というような状況も、十分ありえる状況になっています。

で、ここまで人手不足が深刻になると、そもそも次元の違う解決法がますます現実味を帯び始めるわけです。

オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」

機械に奪われそうな仕事ランキング1~50位! 会計士も危ない!激変する職業と教育の現場

週刊現代とDIMEという、「大げさに騒いで責任を取る気ゼロの記事」を書かせたら5本の指に入ること請け合いの心許ない引用元ですが、引用しといてディスるってなんやねんという批判も真摯に受け止めます。この程度の記事を引用する低レベルのショボいブログです。まぁ「女性自身」とか「夕刊フジ」とかよりマシ、という程度の信頼性として十分眉に唾をぬるといたしましても、これらの記事から分かることは、結局「決まった手順を繰り返すだけ」の仕事なら、たいてい機械にとって代わられるということ。というより、機械の方が黙ってミスなく文句も言わず働くということですよね。

単純作業というだけでなく、もはやAIが囲碁の名人も完膚なきまでに叩き潰しちゃう時代ですから、過去のデータをもとにした仕事はほぼアウトということになります。日本みたいに過去の判例通りに判決下すだけなら、裁判官も軽犯罪はAIでやられちゃう可能性大。そっちのほうがもみ消しとかないからいいかもしれませんね。

あともう一点。下の方の記事にも似たようなことが書いてありましたが、スマホの登場によって「暗記」ということの価値はものすごく下がってしまいました。ここ十年で「物知り」の価値は半減以下になったのではないでしょうか。小学生でもWikipediaで調べた知識を披露すれば、たいていの大人は黙らせられるのでは。逆にWikipedia以上の知識を知っている人は重宝される時代、とも言えるのですが、誰しもありとあらゆる分野で専門家にはなりませんからね。

そう考えると、社会科教員なんてのはもう相当存在意義相当希薄なのでは、と思いますね。もちろん、いや!そんな時代だからこそ!ホンモノの社会科教員が必要だ!という意見も分かりますし、私もそうありたいと思います。ですが、自分がその「ホンモノだ!」と胸を張れる存在であるほど自信はありませんし、「ホンモノ」を自称する人の主張に、懐古趣味と感情論以外のものを見ることはほとんどありません。1%くらいじゃないかな。

理系科目だって安泰じゃない、というか、システムが確立したらそれこそ理系科目の方が悲惨なんじゃないかなと思わないでもないです。

最も人間的なはずの国語でも同じ。少なくとも学校の入試対策なら十分AIが対応可能。さらに読解とは論理把握だと考えればこれまた人間の勝ち目はない。英語でもテレビ授業できますからね。コミュニケーションの部分を除けばあとは暗記と反復練習ですから事情は程度の差こそあれ、本質的な差異はないですよね。そもそも翻訳機が発達すればバイリンガルの価値すらゼロになります。

そう考えたら、教員だって全く安泰じゃないですね。部活させられてブラックだ!とか言うてますけど、そういう人間臭いことこそ喜んでやらないとマジで仕事なくなるかも、なんて。

ではお坊さんはどうなのか。

これもお坊さん=お経を読むだけと考えるなら、テープでいいですからね。お墓参りの代行まである時代ですし。まったく事情は変わらないと思います。ただ、どうしても効率で割り切れない部分と言いますか、「ちゃんと弔いたい」という捉えがたい感情の受け止め場所として存在していますから、個別のお寺の淘汰や大手への集約化とか、葬儀屋さんの付属組織みたいになっちゃうというシステムの問題はありつつも、需要はあるかもしれません。

ですが、「そもそもそれが仏教である必要あるの?」という最後の砦が決壊したら終わりです。

いや、もっと正確に言えば「仏教である」ことに、既に全然意味はなくて、「今までやってきたことだから」という習慣性がお寺を存続させている。しかしその最後の頼みの綱さえも、親子世代の別居で完全に断ち切られつつある。

葬儀というプロセス自体がなくなるということには、人間の性として実は透明だけど相当高いハードルがあるように思うんです。何といいますか、「何となく気持ち悪い」という「何となく」を消すのが、実は一番大変だなって思うので。ただ、そこに「お寺」が今の形で介在する必要があるのか、その点は大いに危機感を持った方がいいですよね。というより、持ちすぎても大げさではない。

社会に「余裕」があってはじめて存在を許されるようなところがありますから、せいぜいそんな社会を維持する努力をしつつ、むしろお寺がその「余裕」の源泉になるようでないとダメなのかなとも思います。

かつてトマスモアが「羊が人を食う」と言いました。

昔アニメや映画でロボットが反逆して人間が支配される、みたいなのを散々見ましたが、人がロボットに駆逐されていくプロセスは、あんなのよりずっとずっと静かに、そして確実に進行していくのだな、と空恐ろしく感じます。

鉄の悪魔を叩いて砕く。そんな都合のいいヒーローはいないわけです。