慈眼寺 副住職ブログ

あきらめる

今日、阪奈道路を1人で運転中、ずっと考え事をしていました。

「諦念」

という言葉があります。

他にも諦観とか言ったりしますよね。仏教的には「諦」は「真理」という意味があります。
ガンディーのサティヤーグラハ=「真理の把握」なんかは学校の教科書にも出てきます。
サティヤ(真理)+アーグラハ(把握)=サティヤーグラハなんですね。

でもこの「諦」という字、通常は「諦める」と読みます。「あきらめる」ですよね。
これはどっちかというと悪い意味ですよね。

なんで途中で投げ出したり、嫌になったりすることが、真理なのだろうか、ってずっと考えてたんですよ。

「諦」の字源を見たらだいたいわかります。ごんべんだから言葉が関わっていて、横は「帝」ですから、なんかどうせ神にささげるなんかの容器とかそんなん使う儀式ですよね。言葉でしっかりハッキリさせるとかそんなとこでしょう。サティヤーの意味に言葉がついてるだけですよね。

それがなんで「ギブアップ」になるのかなぁ~なんて考えてたら、ちょうど生駒の山頂でスワッ!って閃いたんですよね。

ああそうか。「諦める」=「あきらめる」=「明らめる」なのね!

「諦」は「真理」。言葉を使ったりして明るく照らしてハッキリさせて、真理に到達する。明らかにする。明らめる。西洋の「啓蒙」もAufklärungといいます。理性の光で照らすわけですね。Aufklärungの訳語としての「啓蒙」にはちょっと元祖中国の中華思想がガンガンに詰まってまして、おまえら野蛮人にビームを当ててやるみたいなニュアンスが入ってしまうのでちょっと微妙なんですが。

で、なぜ「真理」→「ギブアップ」になるのか。

明らかになったら、限界を知って、無理なことには挑まないわけですね。当然諦めるわけです。

お釈迦様の逸話にある芥子の実の話ですよね。まさに。

子どもを亡くした母が、半狂乱になって甦らせる法を釈尊に尋ねる。
釈尊は、「いまだ一人も人が死んでいない家の芥子の実をもらってきたら生き返る」と告げる。
母は必死で家々をまわる。まわる。しかし、そんな家はなかった。

そこで母はハッキリと悟るわけです。真理を把握する。

「人は必ず死ぬものなのだ。これは誰にも等しく起こることなのだ。」

と。

明らめたから、諦めるわけです。

ここを間違ってはいけない。逆ではない。

すぐに音を上げて「無理!」と投げ出してしまう。これは何も明らかになってないわけです。むしろ暗くなっている。

本当はできるかもしれないのに、確かめもしないで放り投げる。これは投げ出しているだけで、明らめていない。だから諦めていない。

そういう意味では、我々は滅多なことでは「諦めた」などと言えないことが分かります。これは「悟った」とほぼ同義語なのですね。

頭の中の霧が晴れたような発見をしたつもりだったのですが、家に帰って検索したらなんかこんなの常識みたいで、なんかそこらじゅうで「”諦める”は”明らめる”」でまとめた「ちょっとええ話」みたいなのがワラワラ出てきました。ショック!

新たな発見のつもりが、なんかしょうもない説教小噺みたいなしょっぱい結果に!恥ずかしッ!社長の朝の訓示に使われそう!泣きたいッ!

とは言え、自分で考えてウンウン唸って、思いついた過程はなかなか楽しかったです。いいんです。僕なんてそんなもんなんです。明らめました。
明らめると、恥ずかしい自分がいました・・・。

とは言え、戒名やお経なんかでさんざん使う「諦」という字について、ちょっと考えられてよかったです。もちろん、「これで”諦”はクリアしたぜ!」なんておこがましいもの。全然まだまだ明らかにはなってはいないのですが、今ちょっと考えているお説教の話の一つのネタにはなるなぁなんて思っていました。

それがどうした、というような内容ですが、私的にはコペルニクスが転んだような、それなりの事件でした。おそまつ!