慈眼寺 副住職ブログ

“わかる”とは何か

ずっと考えていることがあります。

”わかる”とは何なのか、ということです。

数学の問題を解いていて、解き方が頭に浮かんだりすると、霧が晴れたような、光が差したような、えも言われぬ快感に似たものを感じたことがあるでしょう。

説明を聞いて納得すると、「あぁ~!」と言っちゃうアレです。

こういう場合、何やら、「あぁ~!」と見えてくる何かがあるような気がする。それは大ざっぱに言って「真理」というようなもの、のような気がします。人間がみな頭の中に知性のようなものを持ち、共通の「理」を共有できる、というモデルは、洋の東西を問わず、普遍的にあるような気がします。

西洋でのそのものズバリの「理性」であったり、「ボン・サンス」であったり、もとをたどればつまるところ、「ロゴス」ということになりましょうか。東洋でも朱子学での「理」であったり、陽明学での「良知」であったりします。

人間は誰もが「賢さ」を持ち、まぁ、話せばわかる、と。

そういうモデルがやはりあるわけです。言葉を使う動物ですし、そこのところに不信があったりするとそもそもなんで言葉を使うの?ということになりますし。

しかし、この「分かる」ということ、なかなか厄介だなと昔から思っています。

そもそも「分かる」は、「動詞」なのか。「行為」なのか。「状態」なのか。「現象」なのか。
どうも動詞ではない気もします。分かるは「自然と明らかになる」ニュアンスも強い気がする。

そこのところが判然としません。

それと、「ああ~!わかるわかる!」という「感覚」。これもあやしいものです。

授業なんかしてますと、「ああ!わかった!なるほど!」とか言ってる子の理解を確かめてみると、実は全然分かってなかったりすることは多々ある。おい、じゃあさっきの「ああ!」で君は何が見えたのだ?と思ったりもします。

「あなたの言うことは面白い」と言ってもらっても、「この人に私の言った内容がちゃんと伝わっているとはとても思えない。この人は一体何を”分かって”いるのだろうか???」と不安になることもよくあります。当然、逆もあるわけです。私がそう思われている状況です。

実際何も分かっていないのに「分かった!」と気持ちよくなる効用。それは「いいところで止める」という選択をするために、脳内にある報酬系なのかもしれないと思います。能力が低いのにいつまでも考え続けるのは時間の無駄。意見が違うのに話し合い続けるのも時間の無駄。円滑に物事を進め、できることに集中するために脳が与える「錯覚」なのかもしれません。

そう考えると、「自然と明らかになる」不変の真理などそこにはなく、とりあえず、いいところで手を打つという生物の妥協的な選択として「分かる」を捉えることもできるかもしれません。

「わかる」は「分かる」です。少なくとも日本語ではそうです。英語のunderstandとか、ドイツ語のverstehenは基本的には「近づいてよく見る」的なニュアンスが強い単語ですが、日本語の「分かる」は「分ける」の意味合いが強い。個人的にはKritikなどの「批判する」のニュアンスのほうが、むしろ日本語の「分かる」に近い言葉なのではないかと思います。Kritikはもとをたどればギリシャ語の「クリネイン:分ける」から来ています。

要は、我々は「分かる」を真理に到達するようなイメージでとらえがちですが、何らかの基準でもって、切り分けているに過ぎないのではないか、ということが私の言いたいことです。

誰もが争いごとで、「証拠」や「証言」を集め、さも「客観的」であるかのように振る舞い、「分かって」もらおうとする。しかしそこで目指されているのは、真理の共有などではないのではないか。

「分かる?」と聞かれ、「ああ~わかるわかる!」

そこには何も目指されているものなどなく、ただただ、二人の人間のバラバラな「切り分け」があるだけなのではないか。

同じ問題でも、Aさんは深く深く考えて、多くの事例に適合することを目指して線引きし、「分けている」。

一方同じ問題を扱いながら、Bさんはとりあえず大ざっぱなところで満足して、あとは相手に共感していることだけを示して、同じ理解度に到達しているかのように見せたい。

二人は「分かって」などいるのか。

お互い好きなところで満足して、ことばのうえだけで、気持ちよくなっているだけなのではないか。

そもそも「分かる」=「分ける」ことに、「深さ」や「正しさ」を求めること自体、無理があるのではないか。

「分かる」ことはどこまで行っても主観的な、もっと言えば感情の産物でしかないのではないか。

そう思うこともあります。

人間は自己肯定をする生物です。

自分の生き方を肯定し、自分の家族を肯定し、生き方を肯定する。肯定しないと生きていけない。人間の行うありとあらゆる行為はすべて「自己肯定」の発露だと言えます。

同時に人間は自己否定の生き物です。

あるときには黒だと言ったことを、都合が悪くなれば白と言い換える。「この場合は違う」などと勝手にケースを「分ける」。なぜ否定する必要があるかと言えば、そうしないと、自分の言行を徹底することができず、深刻な自己否定に陥るからです。大本の自分を崩壊させないために、「あの頃は若かったね」「あのときはついカッとなって」などと「成長」したかのように、「状況が変化」したかのように、取り繕ってごまかしますが、その実は自分が首尾一貫していないだけなのです。

深刻な自己否定を避けるために、その場その場で状況を切り分け、自分の都合のいいように「加工」して、自己を肯定する。

自己肯定のための自己否定。

否定的弁証法、などという大層なことではなく、ただただ人間は感情の生き物で、理屈なんて一貫できないことを百も承知で、状況や証拠を切り分け、自分に好意的なな証人だけを集め、自分に都合のいい事例を、自分に都合のいいように伝えて、「忌憚なき意見」なんかを集めて、「客観的に見て自分は正しい」なんてことを言うわけです。

結局、人間は自分の見たいものだけを見る。聞きたいものだけを聞く。我々の認識はどこまでも感情に塗りつぶされて、偏見に歪められ、あさましい自己愛で守られた自己肯定の産物でしかありません。

そこをはき違えて、これが真理だ!とやっちゃいますと、不幸な歴史の事例のようなことになる。

人間同士のやることは、どこまでいっても水掛け論なんですね。

人間は「分かる」ことなどできない。ただただ感情の赴くままに「分けている」だけ。

身も蓋もないですが、そのように、考えたりします。