慈眼寺 副住職ブログ

人に何かを尋ねること。

なんでもそうなんですけど、人に何かを質問するってことは、それだけではまだ、何の価値もない行為だと思います。

試合が終わってアドバイスを求める。先生に質問をする。師匠に教えを請う。友達に美味しい店の情報を聞く。

こういうのって、「質問をする自分の意欲をアピールする」ことが主目的になっていることって、ないですかね。そんなに毎回毎回アドバイス聞いて、いつそれを試すんだ?って思っちゃいます。

人に何かを尋ねたとき、人は尋ねた相手に対して、というよりも、「尋ねる」という行為に対して、もっと言えば、「尋ねた自分」に対して、責任を負うている。そんな気がします。

「ここがおいしいよ」と言われれば、そこに行く。「こうすればいいよ」と言われれば、とりあえず試す。

聞くだけ聞いて、その場しのぎの会話を成立させる。みんながアドバイスを聞いているし、とりあえず聞いておく。
「あいつは熱心だ」と思わせておくだけでいいだろう、というせこい計算が透けて見える。

そういう質問は、相手にも、自分にも、質問している内容に対しても、不誠実で、冒涜的であるように思います。

 

先日、私にあることを質問してきた人がいました。人それぞれ、価値観も違うし、答えに悩みましたが、本当に自分がいいと思うものを勧めました。するとその人は、すぐに私の言ったことを実行していました。

毎週決まったところで会う中学生がいて、ときおりバドミントンのアドバイスめいたことをします。その子はその次までにそのアドバイスを必ず実行して、形にしています。忠実過ぎて、僕のアドバイスの欠陥が浮き彫りになるくらいに、忠実に。だから僕も本当に真剣にアドバイスします。

別になんでもかんでも優勝したり世界一になったり、一流になる必要はないと思います。私なんて何もかもできません。

しかし、到達点はどこであれ、昇っていく人間というのは、美しい。気高い。

地を這いながらも昇っていく人間でありたい。

そのように思います。切実に。

今日は、教えた人に教わった、そういう日でありました。