慈眼寺 副住職ブログ

「過ぎる」を潰してまわる、「因果な仕事」

若い人の書いたSNSなんかの文章を見ると、

「幸せ過ぎる」「毎日充実しすぎてこれでいいのかと不安になる」

などの、表現を見ます。

こういう表現に、昔はお目にかからなかったのですが、最近とみに目にするようになりました。

私はひねくれ者なので、こういう表現を見ると、なにやら強迫観念にかられた必死な感じを受けて、そら恐ろしくなります。何か、独裁国家の政権礼讃を聞いているようで、怖いです。

SNSという、「リア充であることをアピールすること」が義務付けられているかのような異常な空間で、他者に対して自分の充実ぶりを「過ぎる」という表現で表さざるを得ない。語彙の貧困さも感じます。要は、「幸せ」に対して、「超」をつけるか、「過ぎる」をつけるしか、現代社会では選択肢がないようです。「甘い」ことの表現に、しかし「すごく甘い」と言っているだけに近い幼稚さに、日本社会は自覚的なのでしょうか。

例えば、あんこの「甘さ」は、ただ砂糖を入れることだけでは実現されません。ごく僅かな、「塩」を入れることで、より甘さが引き立ちます。「塩梅」という言葉もあります。「甘さ」のために、「塩っ辛さ」「苦さ」「酸っぱさ」が必要とされます。何かを表現する際には、その何かの逆の要素を加えることが、より効果的です。

翻って「幸せ増量社会」の日本。ただひたすら砂糖を入れて、「甘過ぎる~」と過剰にアピールしなければならない社会。大本営発表では連戦連勝の大日本帝國軍のようでもあります。

「幸せ」に「過ぎる」なんかない。

私はそう思います。同様に「苦しい」にも「過ぎる」はない。

どんな幸せにも苦しさが入り込んでおり、どんな苦しみにも幸せの痕跡、幸せの萌芽はある。

全ては関係性のもとにある、相対的なものであります。何かを表すための絶対的な指標も、原点0もありません。

 

そういえば先日、「あなたの仕事は、因果な仕事だね」というお言葉を頂きました。「因果な仕事」、とは、「嫌な巡り合わせの仕事だね」ということでしょう。つまり、「人の不幸事でご飯を食べてるんだね」ということです。

まぁ、子供のころから散々言われてきたことですし、実際人の不幸事で仕事が入りますので、「そうですね。参ります。」としか言いようがないのであります。テヘ♪

しかし、本来の意味で言えば、「因果」とは、「原因と結果の繋がり」という意味を持ちます。「親の因果が子に祟り・・・」というのは典型的な仏教的「因果」観であるとされます。お坊さんは前世で何か人殺しでもしたのでしょうかね?

私はラディカルな仏教徒ですので、平安時代から俗世で流行したこういう「因果」観は、しかし違う、仏教はこうではない、と声を大にして言いたい。

仏教のいう「因果」とは、もちろん原因と結果の必然的な繋がりをいいます。ありとあらゆる事象には原因がある。だから「業」という概念が古代からあるわけです。

ですが、仏教の「因果」は、さらにその先へ行く。「因果」は「縁起」に向かう。

「縁起」もまた、ありとあらゆる事象は、何らかの「縁」があって「起」こる、という意味ですので、基本的には「因果」と同じ言葉です。しかしこの「原因」と「結果」の連鎖は無限に続く。ありとあらゆる事象が互いに縁となって無数の経糸と緯糸としてより合わさって、一つの模様を映し出す。そこに「これが決定的な原因である」というようなものは、存在しない。

「親の因果が子に祟る」。しかし、その親にも親がいて、子にも子がいる。横には同じ時代に無数の人間がかかわっていく。この無限の因果の織物に、「これが原因である」というものはどこにもないし、それを決める特権的な位置は、どこにもない。

これが「縁起」=「因果」であり、それはつまり、「相対化」ということに尽きます。

幸福も、不幸も、すべては人間の有限な目ではとらえきれない無限の「因」と「果」の絡み合いによって生じた一つの「相」に過ぎない。同じ事象が、誰かにとっては「幸福」であり、「不幸」でもある。「幸福」が突然「不幸」に変わることもある。自分が「私」だと思っている状態だって、常に突然変わってしまい、変わってしまった後には、変わったことにすら気づけない。我々の一生は、一瞬一瞬そのように「相」を変えていく不確かなものであって、絶対的なものなど、どこにもありはしない。

そういう意味では、我々の、坊主、という仕事は、まさに「因果な仕事」なのであります。言い方を変えれば「相対屋」です。相対的であることをしつこくしつこく説いていく。

私は死ぬぞ。お前も死ぬぞ。やがて死ぬぞ突然死ぬぞ。原因は多すぎてどれが原因だかまったく分からないが、確実に何か分からない原因のせいで、何が何だか分からないまま、私もお前も、経験したこともないワケの分からない「死」という状態に、いつ何時かわからないタイミングでなってしまうぞ~。

幸せ過ぎなんてないぞ。不幸も過ぎないぞ。「幸せ過ぎて不安?」心配しなくてもあっという間に消えるぞそもそも不幸も幸せも同じものだぞあっという間に変わるぞ変わったことにも気づかないだけだなぜならお前自身がずっと同じものではないのだからいつも変ってしまうお前が何を基準に幸せなどどいうのだすべては常に変わっていくというのに。

なんてことを、日々お経という形で毎日仏壇の前では唱えられているんですよ。みなさん。

怖いでしょ?お坊さんって。

因果な仕事ですわ~(ニヤリ)