慈眼寺 副住職ブログ

木と森

「中古車で十分」の先に起こる日本の不幸化

最近では珍しく読んだ価値のある記事だなと思いました。

なんにでもいえると思うんですね。得だからとみんなでとびつくと、結果的に全体に不幸になる。
部分の幸福の追求と全体の幸福の追求が同時に達成されない。

で、これを書いた人は、だから全体を俯瞰しながら個人の幸福を追求する両方の目線が必要、といったような結論に至っているわけです。いわば「木を見て森を見ず」でも「森を見て木を見ず」でもいけなくて、「木も森も見ろ」ということになりますか。

自転車業界でも同じです。
「ネット海外通販で安く買って困ったら近所の自転車屋に持ち込めばいい」という考え、一見賢そうですが、その実、近所の腕のいい自転車屋さんを倒産させて結果的に自分が困ったときに助けてくれる人を失っていく結果になっています。

結局、本当に、掛け値なしに得なのは、「自分で何もかもできる自転車屋並のスキルを身につけ、海外通販で安く買って、自分で組み立てる」ことです。でもそのためには大変な努力とそのための専用工具などを購入する費用がかかりますが。(実はそこまでやってもまだ不十分で、メーカー保証を受けるための窓口などの問題で、結局どこかのお店に頼らざるをえないのですが。)

そうでなければ、信用できる自転車屋さんにお任せして少々高くてもしっかり労働に見合った対価を払うことです。高いことにも、安いことにも、理由があります。

昔の共同体にはこういう知恵が蓄積されていて、里山をみんなで共用したり、この時期には魚を採ってはいけないとか、そういう大きい目で見たしきたりがどこにもありました。しかしこういう共同知は共同体が変化せず長く維持されていくからこそできること。現代社会では回転が早く、変化が大きすぎてあっという間に使えなくなってしまいます。

それでもやはり、上の引用記事にもあるように、こんな社会でもエスカレーターや電車の待ち方には「しきたり」が常に生まれ、東京のような都会ではなおさらそうした「ルール」が必要とされています。「よそもの」だらけの社会にはそれに適したルールを作っていく、そうした日本人の規律性は、ときに弊害も多いものの、やはり強みであるように思います。

そういえば、古本屋もいっとき、100円くらいで漫画を売っていましたが、今は状態のいいものを定価の7割程度で売るのが多いような気がします。最後は需要と供給でコントロールされていくものですが、せっかく「ホモ・サピエンス」などとふんぞりかえっているのですから、少しは賢さを見せて、「木も見て、森も見る」そういう動物であるべきだと思いますね。いつの時代も。