慈眼寺 副住職ブログ

小人

どんな分野でもそうなんですが、知りもしないことを知っている風に言う人がおられて、ちょっと辟易することがあります。
特に、「知っている」と勘違いしている人が、先輩風を吹かしたり訳知り顔でおっしゃられることがあり、得意になって「教えてやる」という立場で話されるので、いたたまれなくなります。その場から走って逃げたい気分になります。

それというのも、教師という仕事はまさしく、本当の意味ではとても知っているとは言えないようなことを、さも知っているかのように、語る職業だからです。相手は全部自分よりはるかに年下、知識も経験も全然ない。だから外の社会では考えられないような傲慢な態度をとったりする方もおられます。

お坊さんも同じです。なかなか仏事というのは一般の方はあまり経験していないことが多いです。ときには、自分のおじいさんおばあさんのような方に、供養の仕方を尋ねられたりもします。お葬式でも、葬儀屋さんに下にも置かない扱いで丁重に荷物までお持ちしますと言われてお出迎えです。こっちが若造でもそうです。

そういうときは、帰り際にどんな扱いをされるかで、自分の立ち位置を見直すべきだなと思ったりします。コレ、あるあるなんですけど、来たときと帰るときのお坊さんの扱いって、ちょっと笑えるくらいひどくて(笑)。来たときは丁重すぎるくらい丁重ですが、帰るときは、「あれ?まだいたん?」みたいなときも、たまにあります(笑)

でもそんなのは当然で、向こうはお仕事でやってらっしゃるわけですから、お葬式がつつがなく終わること、さらにまだご遺族の接待があるわけですから、お坊さんなんてお経さえ詠んでもらったらもうどうでもいいわけです。逆に言えば、それ以上の価値を自分が提供できていないということの証明でもあります。帰りの扱いが等身大の自分、そう思いながら自分の荷物は自分で持って帰りますし、だから、来た時にお持ちしますと言われても、あまり渡さないことにしています。ときどき渡さないとすごく困ったような顔をされる若い方がおられて、「きっとマニュアル通りにしないと、上司に怒られるんだろうな」と思った時だけ、渡します。

どういう人間が愚かなのか。答えはシンプルだなと昨日友人と語りまして、それはつまり「小人」だと。
論語にこんな言葉があります。

「小人の過つや、かならず文(かざ)る。」

小人(しょうじん)とはスケールが小さい人、ではなくて、自分のスケールが分からず、実際の自分より大きく見せたがる人、だと思います。これ自体は、小人が失敗するとそれを必ず取り繕うという意味ですが、私はもう一歩踏み出して読み取りたい。

失敗してもしなくても、小人とは、自ら飾る人である、と。

そりゃあ見栄を張りたい時もあります。虚勢を張りたい時もあります。

ですがそんなときは、「ちょっとカッコつけちゃった。テヘ♪」と笑える人間でありたいなと思います。

できないことはできないと、自分の実力を正確に見極めている人は、決してバカにされたりはしないと思うんです。
どんな世界でも上には上がいるし、小さい集団で天狗になっている人は見苦しいし、でも、どんな小さい集団でも、やはり一番!になっている人というのはそれなりと言いますか、なかなか一番というのはとれないものです。メジャーなスポーツの人がマイナースポーツのメダリストをバカにしたりすることがありますが、メジャーな集団はメジャーだからこそ、「不純物」が混じりやすい。要は、どんな集団でも「なんとなく」やっている人が半分以上はいるわけで、1回戦で消えるような人は基本的に真面目にやってない。メジャーであればあるほど、トーナメント表は大きいですが、そうやって1回戦で消える人の人数は大きいトーナメント表の方が大きいわけです。

つまり、「本気でやっている人」の人数って、実は思っているほど、どの分野でも変わらないのでは、なんて思ったりもします。

なので、教師やってるとか、葬儀屋さんに丁重に扱われるとか、所属集団がでかいとか、学校の偏差値が高いとか、子育て経験が豊富とか、息子を東大に○人入れたとか、そんな非本質的な要素で自分の実像を計り間違って、勝手に自分を「大きい」と思いたい人というのは、おしなべて「小人」なのだと思います。

気を抜くとすぐ「小人」になる私だからこそ、こういうことを書きました。大きくはなれませんが、小さくならないように、ありたいものです。