慈眼寺 副住職ブログ

「自己啓発」なんてするな

突然ですが、「自己啓発」という言葉にアレルギーがあります。「自己啓発本」というジャンル(?)にも違和感があります。

もっと具体的に言うと、いわゆる「意識が高い」人たちが、「自己啓発」に励み、「前向き」に、「豊かな人生」を送れるように、「日々努力する」ための「きっかけ」を探して、本を読んだり、なんかのセミナーに行ったりする行為が、非常に空虚に思えて仕方ありません。

なぜ空虚なのか。

こうした人々がいつまでも「きっかけ」だけを探していたい人たちだからです。

英語が話せるきっかけ。前向きな思考のきっかけ。優秀なビジネスマンになるきっかけ。

つまりはそうした「目標」を目指す動機づけを本とかセミナーに求めている。しかし逆に言えばこれらの人々は一歩も踏み出していない。

英語が話したければ留学すればよい。優秀になりたければ仕事をすればよい。前向きになろうなんて前向きな人は思わない。

結局これらの人々は自分の「中」にないものを、「外」に求めている。
しかし、自分の成長のきっかけを自分の「外」に求めて何の意味があるのか。他人の成功が自分にとって何の意味があるのか。

そもそも「啓発」という言葉は『論語』の中から出てきた言葉です。

「子曰、不憤不啓、不悱不發、擧一隅而示之、不以三隅反、則吾不復也。」

子曰わく、憤(ふん)せずんば啓せず。悱(ひ)せずんば発せず。一隅を挙げてこれに示し、三隅を以て反えらざれば、則ち復たせざるなり。

「啓」と「発」がここでは分かれていますが、ほぼ同じ意味使われています。憤といっても、憤慨するわけではなさそうですが、悶々と思い悩み、心に詰まって今にも出そうな熱い悩みを持って自分で考えている人間にしか教えない。自分の中に考えがあるのにうまく言えなくてもどかしいというような者にしかヒントは与えない。四隅のうちの一隅を言えば残り三つがすぐにわかるような人間でないと、二度と指導しない。

厳しい言葉ですが、「啓発」という言葉の本質がここにあります。

まず対象に向かう内的な探究心があり、そのための努力も十分にしている者でないと、学ぶに値しない、ということです。

自己啓発本というのは、専門書の対極にある「何にでも通じる」思考法やスキルのためのお手軽な「きっかけ本」と言っていいでしょう。つまり「何にもハマっていない人間」が「何かへのハマり方」を探すという矛盾した本です。ハマってる人はそんなものを読まない。ハマってない人は読まなければいい。自分の中にないものを他者に求めても無駄です。そんな人にわざわざ教えてあげても無駄です。無駄とわかってそんな本を出すのはただの詐欺です。でも、騙される方も本当はそんなことはわかっていて喜んで騙されているので性質が悪い。

なぜ自己啓発本を人は読むのか。

それは「現実逃避」だと思います。
何かに努力したい、何かに熱中したい。でも、何にも努力してないし、熱中もしていない。そんな自分はダメな自分である。だから、努力する熱中する自分になるための「きっかけ」だけは探しておく。努力はしていないけれど、努力のための努力はしている。

これが「自己啓発」という名の「言い訳」の正体だと思っています。

たとえるなら、テスト勉強をするために、一年中机の掃除を行っているような人、それが「自己啓発」好きな人です。

実際に一歩踏み出せば、「何者か」になってしまう。一定の評価をされてしまう。たいていは一流になどなれない。生半可な努力ではネガティブな評価しかされない。「○○3級」とか、取らない方がマシに思える。

だから、何者でもない、評価されない、曖昧で居心地のいい状態のままでいる。

しかも、あくまで「自己啓発」。他者は要らない。本来は啓発というのは他者を媒介にして起こるもの。つまるところは互いに刺激しあう行為です。他人に「評価」されてはじめて起こる化学変化です。起こるかどうかは自分と相手次第。緊張感のある関係です。

それをすべて自分だけで行うわけですから、他人からの評価をあらかじめ排した上で、安心して自分の中だけの「きっかけ探し」に没頭できる。便利といえば便利。何の緊張もありません。

そもそも、「きっかけ」なんて、本来どんなものにもあるはず。リンゴの木を眺めても、風呂に入っても「きっかけ」を「見つける人」は見つけます。

ところが、自己啓発本は、ご丁寧に「ここがきっかけですよ」と書いてある(らしい)。この7つの習慣とか、幸せになる勇気や、77の心得とか、CIA諜報員の駆使するテクニックを身につければ、人生が変わる!・・・と書いてある(らしい)。いわばもう蛍光ペンで線を引いてある。お手軽に人生を変えられる。これは便利!素晴らしい!

んなわきゃーない。

そんなものはきっかけでもなんでもない。
答えを見てから問題を解いても何の力にもならない。

大事なのは先ほど言ったように、内発的な衝動が、実際に悩んだ過程が、どれだけあるか。それを外に求めて答えがあるはずがない。しかもそれを本人が一番分かっている。

広く浅く。何者にもならず。

結果を出した(らしい)「偉い人」の言葉を読めば、自分も「偉い人」になったような気になる。

それだったら小説でも読んだ方がよほど楽しいと思うんですが、この手の趣味の人は、なぜか仕事に結びつかないと、遊んでるような気がして申し訳ないと思われるようです。とりあえず子供には「文部省推薦」の映画を見せて「いのちの大切さ」とかメッセージがないと、とか思っちゃう「真面目な人」って昔から多数派です。本当のことを言えば、そういう人は作品や仕事に対してすごく「不真面目だな」って思うんですが。

このように自己啓発という言葉の使われ方に、非常にアレルギーがある私。嫌ならほっとけばいい、というのが正論ですが、面倒なこともある。

「自己啓発」の拡大欲はとにかくすごい。正直、油断してるとニーチェも織田信長もドラッカーも自己啓発コーナーに並べられたりするので、うかうか本も読めない。知らぬ間に私の愛読書も「自己啓発本」にされちゃう。いつのまにやら拡大する自己啓発ワールド。知らぬ間にあなたも私も「自己啓発の人」。怪奇!自己啓発人間!!!

 

無我夢中で努力せよ。向上心のないものは、ばかだ。

なんて私は言う気はないのです。やりたいことだけやって、やらなければならないことも仕方なくやって、あとはダラダラしてればいいじゃないか、と思うだけなんです。

「ダラダラしてるくせにカッコつけんなよ」っていうのが、私の率直な意見。

今日も電車で「そういう本」を読んでいる人を見ると、読みたいもん読めよ~、読みたくないなら遊べよ~、パチスロでもいいからやりたいことやれよ~、ないなら寝とけよ~とか思ってしまう、不謹慎な副住職でした。