慈眼寺 副住職ブログ

罪と罰と

罪はいつできて、いつ罰が与えられ、いつそれが許されるのか。

キリスト教のように聞こえる話ですが、特にそんな気はなく、考えています。

広懺悔というお経があります。善導大師が書いたお経ですが、人生のこれまでの罪をすべて発露し、懺悔する血のにじむような告白文です。最終的には、これって個人の懺悔というより、「原罪」みたいな思想に至っているなとも思います。あ、またキリスト教に。

ただ、私自身の傾向として、というか、「原罪」ってなんかこう「みんなどうせ悪い」みたいな開き直った感があると言いますか、むしろ、「俺って最悪」という自分自身の恥ずかしくて、情けなくて、夢に見て脂汗かいて飛び起きるような、どこまでも自分だけの問題のほうが、切実に感じます。ただ、個々人がそういう自分だけの問題を突き詰めていけば、結局それは普遍的な問題になるのですが。ですが、「みんなとかどうでもええわ。問題は俺がどう感じるかだけや」というのが、実は罪の本質だったりするようにも思います。

罪って、相手があって、迷惑かけて、そこに生じる気がするんですけど、本当にそうなのかなと。相手にすごい迷惑をかけても罪の意識なんて感じていない人もいますし、全然的外れな罪の意識にさいなまれている人もいます。

結局他人なんてきっかけに過ぎなくて、人は、自分が感じたいものを勝手に感じているのではないのか。罪を感じることは、案外人間にとって、ある意味では心地よいものなのかもしれません。

罪で気持ちいいって、なんて不謹慎な!

とお思いかもしれませんが、まさしくその不謹慎さが、人間の罪深さなんだと思います。

本当につらいのは「無意味」であり、罪は「意味」に満ちています。
「罪」を感じるとは、自分の人生に「意味」を感じることだと思います。
それはつらいことであると同時に、心地よいものです。

人が最も恐れるのは無意味だと思います。
無意味であるくらいなら人は苦しむことを選ぶ。
罪は人生に意味を与える。

だとすると、許しとは、なんなのだろう。

とりとめもない話ですが、今日はそんなことを考えていました。