慈眼寺 副住職ブログ

南無三パワー

ちょっと今日、ちょっとした文化発表会を見に行ってきたのですが、あまり絵とかは私、わからないんです。
で、書道も下手くそだし、巧拙もよくわからないんですけど、一つ、ものすごく心に残る書があって。

実にのびやかで、気持ちがいいんです。見ていて引き込まれました。

なんでしょうか。手本を見てそれを似せたのではなく、手本の人になりきって自由に線を書いたような。

どこまでもまっすぐで、線の先からその人の心が離陸して飛び立ったような、美しい線でした。
とめ、はね、はらいのすべてに力感が見えて、淀みのない美しいバドミントンのフォームのような。
ああ、そこはそうなるよね、みたいな。試合を見ているような気分になりました。もっと上手い書はいっぱいあったのですが、それが一番心に残りました。

バドミントンの一打一打にも、当然いろいろ見えてくるものがあって、巧拙や強弱は当然あるのですが、そこに心が乗っているときの軌跡は、美しいなと思ったりします。

スマッシュで攻撃するということは、ある意味で毎回ちょっと死んでしまう覚悟と言いますか、大げさですけど。

打つ=攻撃って、もちろん優位なように見えるのですが、同時にリターンで決められてしまう可能性がどこまでも頭によぎる。ネットにかけたらどうしよう、変なとこに当たったらどうしよう、浮いたらどうしよう。相手が上手ければ上手いほど、不安が湧き上がります。相手が自分より格下だと感じたときも、それはそれで厄介で、格下だと思った相手にとられたときの心のダメージは無視できないものがあります。
妙にプライドの高い人なんかはだから、格下にとられるのが嫌で、かわす攻撃が多くなる人がいます。

これは、少なくとも自分の流儀には合わないなぁと思います。

やっぱりコートに立つ、ということは土俵に上がるのと同じですから。一打一打、大げさですけど、自分自身を全部乗せて打っている面があると思うんです。もちろん、かわすショットがダメということではなく、かわす場合も、全力でかわずというか、最後にかわすためにも見せ球は全力で撃たなきゃと言いますか。そのへんを妙に守ってしまう人は、残念だなぁと思ったり。いや、いつも力入れてガチガチって意味ではなく、逃げる時は逃げて。守るときは守り。でもどこかで「南無三!」って全部乗せてしまう部分って、あると思いません?

ホントおおげさなんですけど、一筆一筆、一打一打、全力でやるべきことをやる、逃げるときも全力で逃げる。

そういう積み重ねを、何度も何度も繰り返していって、体に染みつけていって。

それって技術であり、パワーであり、習慣であり、魂であり、結局自分自身であって、さらにそれらをすべて捨て去ったところなのかなって。

そんなことを思いました。
なんか意味不明かと思いますが、自分の中では合点がいっています。独りよがりですいません。