慈眼寺 副住職ブログ

無用の用

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151020-00000032-mai-life

「実学重視」、「理系重視」とやらが叫ばれて、どんど大学の文系が「改組」、正確には「縮小」しているようです。
もちろん蛸壺的で「実益」を生み出さない文系の研究は、そのほとんどが無意味であるかのように見えるかと思います。

私はとある地方大学の文学部哲学科で10年以上も哲学を勉強していました。

その間確かに何らの発明も生み出さなかったし、社会に影響を与えることもなかったし、「実」のある学問を一切しなかった気がします。
空理空論にふけって難解な顔をしていただけで、実際には自己満足の世界に逃げていたのかもしれません。

私の大学の文学部全体の人数は、確か120人くらいだったでしょうか。その120人が2回生になって自分の専門学科を選び、西洋史や哲学、心理学などの学問を選択します。私の学年で哲学科を選んだのは4人。私立であれば1つの学科が120人というのも普通ですが、私は4人。哲学科だけに教授が10人いました。つまり、4人の学生に10人の先生がいたわけです。全学年合わせても8人くらいの研究室に10人の教授。今は私の大学でも先生は4人ですから、贅沢な時代だったなと思います。

そこで出会った先生は全員英語はもとより、独語か仏語は必須として、ラテン語も読めて、ギリシャ語もできる先生ばかり。全員がその分野のスーパーマンのような人たちばかりで、毎日毎日聞いても聞いても分からない話をしてくれました。

無駄と言えば無駄でしょう。ただし、空理空論でも、しっかりした空理空論もあれば、そもそもめちゃくちゃな空理空論もあります。「役に立つ!」と喧伝するだけの駄文を撒き散らすのが「実学」でしょうか。今、テレビのなかで「実学」の顔をして偉そうに何でもかんでも物申している「学者」さんたちは、そもそも理論的でも、論理的でもなく、研究もせずに言いっぱなしの人たちばかりです。あんな「実学」的な人たちに出会わず、机上の空論にふけっている素晴らしい先生たちに出会えて、私は本当に幸せでした。「ああはなれないな」と心から諦めることもできました。

確かにどこもかしこも教育学部を作るのは無駄でしょう。減らすのはいいと思います。世の中の全ての学生がギリシャ哲学を学ぶ必要もないでしょう。ただし、文科省の偉いさんがたがやたらと目指したがるアメリカの大学では、法学部でも経済学部でも、しっかりとした「哲学」を、ちゃんとした机上の空論をしっかり学んでから、各専門分野を選んでいきます。論理的であることはあらゆる学問において基本となることだからです。「科学とは何か」を定義することなしに、どうして科学者になれるでしょうか。それが分からないから、実験で証明できない理論を繰り返し、「○○細胞は、あります!」と叫ぶだけの「科学者」が現れるわけです。どちらが空理空論なのか。

もちろん、文系学部の先生たちも、今まであまりに研究室や学会の方に向かいすぎて、社会人を育てること、普通の人に自分の専門分野について興味を持ってもらうことに、あまりに無頓着だったことは否めません。しかしこれだけ大学のポストも少なくなってきますと、そんな大先生は相当数淘汰されてきたように思います。今は学閥だけで教授にはなれないですから。なれるのは宗教系大学にいる難しい名前の先生だけですね。

人が少なくなると、「専門家」の数が減ります。確かに蛸壺的に狭い分野だけ詳しい研究者というのには弊害はありますが、やはりプロフェッショナルの凄み、というのを肌で感じる機会は得難いものです。自分が大学に入って、各分野の専門家がずらっと、それこそ百貨店のように並んでいるのは、学生にとっては本当に贅沢なことなのですけれど・・・。

とはいえ、そういう贅沢を散々無駄に使ってきたのも我々学生です。高校時代、大学で何をやりたいかろくろく考えもせず、なんとなく偏差値で大学を選び、4年間遊びほうけて就職するだけの学生を大量生産してきた文系学部が変わらなければならないのは間違いないでしょう。

願わくば、今回の文系の改組によって、文系とは、知的情熱が凄すぎて、就職とか後回しで、思う存分空理空論の世界で遊びたい知的エリートのみが集まる学部になるというのも、逆に本来あるべき姿なのかもしれません。専門分野を最初から選んで大学を選んだり、他の大学の先生に惚れ込んで転学したりして自分の道をさっさと選んでいくようなそんな大学になればいいなと思います。

どんどん肩身が狭くなる「文系」のなかの特に狭いとこに座っている「哲学」です。無用といえばこれほど無用な学問もないのですが、思考の枠組み自体について考えること、すなわち「世界観」というものが一つではないことを学ぶことって、今の日本に最も欠けている気がするんですよ。政治家の人も、デモをしている人も、相手にレッテルを貼って全否定するばかりじゃないですか。「君の立場ならそうだろうね」という他人の価値観や世界観の存在を肯定することって、自分自身を相対化することであり、なかなか訓練を積まないとできない思考だと思うんです。

無用なように見えますけれど、一生踏まない地面もなくては世界は成り立ちません。しかも理系だって、とことん極めればどこまでも抽象的思考になってしまいます。ニュートリノ理論なんて、まさにそうじゃないですか。我々があの理論によってお腹いっぱいになりましたか?スマホ作れましたか?世界観についての研究なんだと私は思っています。数学もそう。数学基礎論なんて神学論争みたいですから。だが、そこがいいんですよね。そこを忘れてノーベル賞を取るための研究をしたら、ノーベル賞は取れないんだと思います。

無用なように見えて、無用じゃない。

そういうものも、あると思うんです。いや、あります。あるんです。

・・・あるらしいよ。