慈眼寺 副住職ブログ

「中道」と「中庸」

世の中には「分かりやすい」言説が良しとされますが、本質的には世の中に「分かりやすい」ものなどありません。ありとらゆるものは最初から「分かれて」などいないからです。勝手に人が「分けて」いるだけです。我々は虹を七色と認識する文化ですが、二色と認識する文化すらあります。七色以上と認識することだって可能なはずです。要はそこに「分ける」必要性を感じるか否か、真剣に向き合っているかどうかだけが認識の差異を生みます。

「中道」という仏教概念があります。

最も有名なものは、釈迦の最初の説法、いわゆる初転法輪での「快楽でも苦行でも悟りをひらくことはできない」というものです。これをもって「中道」とは「両極端はよくないよ。何でもほどほどにだよ」という理解が通説化しています。

正直に言いますと、子供のときにこの話を聞いて「お釈迦さんって、なんてつまらん話をするのだろうか。こんな話がありがたがられるのか。仏教から学ぶことなんて何もないな」と思いました。もちろん、認識の甘さ故のことです。

ちなみに「中道」と大変よく混同されている概念に「中庸」というものがあります。こちらは論語の思想です。

「中庸の徳たるや、それ至れるかな」

のアレですね。これもまた、「単純に食べ過ぎも全く食べないのもよくない、ほどほどに。」などと孔子を侮辱するのも甚だしい矮小化を行われてかわいそうな概念です。さらにこれがアリストテレスの「メソテース」の和訳に使われてしまい、さらに混乱することになった結果、論語とアリストテレスの共通項である「極端を避ける」という側面のみが過分に表にでている印象があります。
ただ、中庸・メソテースどちらの場合も、理論的知性の対象ではなく、実践的知性の領域に属する「賢さ」として挙げられている点は注目すべきかと思っています。ですから「中庸」において、聖人でも獲得が容易ではないが、一般人でも獲得できるとされているように、「メソテース」でもこれが習性的徳のあり方として挙げられているわけです。つまり、行為に即して適切な「ちょうどいい」をチョイスする能力ということになります。確かにその場その場で一番いい行動をとるのは難しいですよね。余談ですが、その意味での孔子の「中庸」の最も忠実な継承者は、実は儒学者ではない王陽明の「良知」じゃないのかなという気がしていますが、これはあまり詳しくないのでまたの機会に。

バランスのとれた人間が一番。しかし、そんなことをわざわざお釈迦さまが言いたいのか。わざわざ王子をやめてまで。妻子を捨てて。全然バランス取れてないじゃないですか(笑)

重要なのは初転法輪での「快も苦にも偏るな」のあとです。釈迦は比丘に「二辺を避けよ」と言います。ここが「両極端を避けよ」の根拠です。そしてこの「中道」は「涅槃へ導く正道」である、と続けます。

目的は「涅槃」なのです。つまり生死病死にこだわらず、自我へのこだわりを捨てた縁起の相対性の世界へ至るための道として「中道」があるわけです。バランスをとろうなどという穏当な人間をラディカルに突き抜けた世界がそこにあります。私が長じてから仏教に再び興味を持ち始めたのはまさにそのラディカルさです。普遍宗教を新たに打ち立てようなどという人間が穏当な思想など持っているはずがないのです。創造者は破壊者です。

「二辺」を避けよ、とは、「二辺の真ん中を選べ」という意味ではありません。「二辺」そのものの存在否定を意味します。
「あいつは背が高い」と180cmの人を指して言います。ところが2mを超える人に並べば「小さい」。しかし高層ビルに並べば、「小さい」。しかしそれすらも大宇宙では「小さい」。でも大宇宙も最初は「極小」な存在であったわけです。美醜、大小、生死など、ありとあらゆる「性質」は、対立概念があってこそ存在する。それ自体で存在する概念はありえない。ですから、一本の線の真ん中をとるなどという平凡な話ではなく、そもそも「対立という地平からの逸脱」ということこそが「中道」の本義です。対立の中程をとることではなく、ちゃぶ台をひっくり返すことが中道です。

これが竜樹の中観派の「空」に至れば、さらに一歩踏み出した「対立からの逸脱」が見られます。個人的にはここからがようやく一番興味のあるところなのですが、話が長くなりすぎたので今日はここまで。中庸と中道は違う、というお話でした。