慈眼寺 副住職ブログ

プライド

フェンシングの太田選手が金を取りましたね。
彼のこと、全然知らないんですけど、TV越しに多面的な人だなと思います。

お調子者で社交的なところと、神経質で他人を寄せ付けないところ。普通両立しない二つの性格が共存していて興味深い。
普通ああいうお調子者っぽさがある人は頂点にはなかなか立てないんですけど、ついに頂点に立たれました。お調子者って、カッコつけたままでいられないというか。そういう人って、人間的には魅力的に感じます。逆に、頂点に立つ人って、どこかナルシストで、エゴイストで、オチをつけないというか、空気を読まないというか、正直友達にはなりたくないんですが、そういう能力って、頂点に立つために必要なんだなと思ったりもします。

で、太田選手なんですが、その「勝つ人」と「勝てない人」の両方の面が見える不思議な人だなと思っていたんですが、今回彼のコーチとのエピソードを聞いて、新鮮な気持ちになりました。

http://news.livedoor.com/article/detail/7040306/

「貴方の犬になりますから、勝たしてくれと。勝つためだったらなんだってするから」

ここまで言う覚悟ってスゴイですよね。そりの合わないコーチに。でもそのあとあっさりもう用済みとばかりに「コーチいなくても大丈夫」とか思ったりするあたり、なかなか抜け目がないというか、お調子者というか。でもそのお調子者さをそのままあけっぴろげにする気持ちよさもあるんですよね。努力の人なんだと思います。もちろん、国の代表になるような人はみんな私の想像もつかない努力をしているわけなんですが、謙虚になったり、調子に乗ったり、それでも諦めずにずっと努力し続ける、燃え尽きずに、諦めずにずっとやり続けられる、そういう人なんだと思います。思うだけです。ホントはどうか知りません。

でもどんなことでも一旦とことん潰されて、そこからまっさらな自分で頑張るって、なかなかできないけど、できたらすごいいい経験だと思います。

プライドって、むつかしいなって思うんです。

自分を守るためだけのプライドだったら、負けたら言い訳して誤魔化してなあなあにしたらいい。でもそれでは成長は絶対ない。
本当のプライドっていうのは、今の小さな自分を否定して、否定の連鎖のなかで見えてくる大きな自分を肯定する過程だと思うんですよね。
自己肯定ばかりじゃ成長がない。自己否定ばかりじゃ、やはり成長はない。肯定のための否定が必要だと思います。

ただただ自分はダメだダメだ。ヘタだ。才能がない。性格が勝負弱い。向いてない。
それで終われば競技人生終わりです。

でも、「こんな僕でも上手くなりたいなぁ!」という気持ちがある。

ダメだなぁ。俺はダメだなぁ。
でも上手くなりたいなぁ!

一旦自分を全部否定して、それも適当にダメだと決め付けるんではなくて、

ここがダメ。あそこもダメ。こういうところがダメ。またこんな失敗を。ああ俺は何回こんなことを繰り返すのか。

とことん絶望する中で、負けても負けても、そのあとまた、練習してしまう。

「俺、このスポーツ好きなんだなぁ」

って、しみじみ思う。下手だけど、好き。
こういう、「無根拠な肯定」がなければ、人はそもそも何も続けられない気がするんですよね。

全然関係ないことを無理やり絡めているように思われるかもしれないですけど、「念仏を唱えて、救われる」ということも、スポーツを続けることも、根底では同じことなんだと思っています。

否定して、否定して、一旦全部ぶっ壊して、それでも肯定したい。救われたい。

「観無量寿経」の「三心」って、本質的にはこれと同じものだと思うんですが、それはまた別の機会に。

我田引水のような、いや、そうじゃない!と言いたいような。まとまりのない話になっちゃいましたね。

とりあえず今日は、太田選手の否定と否定と大いなる肯定の、本当の意味でプライドの高い努力の成果に、おめでとうございますの言葉しかありません。